Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その93

ブレ様自伝翻訳行きます! 勉強を真面目にしてこなかったために理論が構築できていないOBAKAさんが訳したゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 これが九十年代始めのロンドンで、メディアの照尺が一〇年間全てにあまりにも掻い摘みすぎて投げかけたポピュラーな「クール・ブリタニア(Cool Britannia)」の修正主義の神話からはひどくかけ離れていた。膾炙したセオリーはその数十年間は途中まで「前進した」だけであって、九十年代も例外ではないということだ。少なくとも最初の二・三年は八〇年代の二日酔いのような気がする。ジョン・メイヤーの不適切で憂鬱なトーリー党の失業者の世界と安売りのラガービールと糞みたいなボーイズバンドの。八〇年代の煌めきと約束は長く通り過ぎた。ぞっとする「シャンパンと摩天楼」の空想は寒々しい脆い電話ボックスの無人地帯と醜いロゴと安いスーツに身を包んだ絶望した男達へと捻じ曲げられて行った。きちんと作用するものは何もなく、どこに行っても売られた時そのままの色に塗られた壁ばかりだった。もっと健康的なロンドンの一部でさえ、見事な緑青の垢で疲弊し摩耗し塵埃にまみれ、首都の残りの場所は駐車場と待合室のような感じだった。そして文化的な外観は単純に不毛だった。世代を決定するバンドは一時的に断絶し、個性のないつまらないダンスミュージックとカリスマ性のないポップスの真空地帯を創り上げた。オルタナティブシーンにおいてさえ、アイディアは尽き、週刊の音楽誌は唾を飛ばしそのような意味のない見世物的な作法に流産したバギーとシューゲイザーのムーブメントの後に何かを追求しようと動き回っていた。これが僕が反発し記録していた世界だった。その二つの棹の間には奇妙な舞踏があり、僕らの音楽に搭載されたどんな「性的魅力(glamour)」も現実逃避を意図され、確かにそれは退屈で皮肉めいた一九七〇年へのオマージュでもなくて、だがその住人が逃げ出してきた場所に堅固として位置付けられていた。借りられた家と、ゴミまみれの道と、前の晩の二日酔いの鈍痛と。
 「ヒーズ・デッド」という曲は、特にそういった絶望的な、飢えた年月を思い出させる。実質的には他の全てが同じ方法、バーナードが思いついた音楽のアイディアに僕がトップラインを書く一方で、この曲は珍しく僕が始めたもので、フレットを上下する鋭く形作るFコードが滑らかに動いて、けれどトップのEと Bがオープンになり持続低音して置かれている。それはシンプルだが効果的で、思慮深くどんよりとしているものを示唆していて、だからぼくは回り道と不法占拠の敵愾心に満ちた友のいない世界の憂鬱なセットについて作詞した。カレッジを退学した後、僕は契約して毎週地下鉄に乗ってエッジウェアロードまで行ってリッソン・グローヴの失業手当の事務所までのろのろ歩いて、古着に身を包んで列に並び、週2・3ポンド貰う代わりに事務員に講義と説教をされた。「ヒーズ・デッド」はその憂鬱な風景に合致するセットだった。霧雨と安全地帯と靴下に感じる濡れた舗装道路。バーナードが息を呑むようなギターパートを書くまで曲はあまりにも単純だったーごつごつした、捻れた、曲がりくねった、ほぼ東方趣味の、正しく曲に変形して、ゆっくりとしたセクシーな、獲物を求めてうろつく獣は怒れるノイズの恐ろしい大渦巻きへと溶解した。僕とバーナードが「ムービング」と「パントマイム・ホース」を同じ日か、きっととても近い時に書いたことを覚えているように思われる。「ムービング」は素晴らしいライブの曲だが酷い音質でスタジオで最終的に破壊されてしまって、けれどその中心は脈打ち跳ねるがなり声で、一つの人生からねじ切り新しい人生を詰め込むことに引き起こされたのだった。僕はずっと同音字で遊ぶことを楽しんで、タイトルのダブル・ミーニングを愛した。歌詞の「投げ縄(lassoing)」という言葉は僕の作曲への自信の急発展の奔流の瞬間から来て、ある晩僕には奇妙に思える言葉を思いついて、冗談でアランを試し、曲に靴べらを差し込もうとし、そうなった。トラックの躍動からバーナードの育ちゆく自信も感じられるだろう。いかに彼が賢く、同時代のスタンダードなグランジの静動の動きを真逆にひっくり返したのか、熱狂的なバースを作り、コーラスを広げて限りなくしたか。僕の苦い後悔は、その時点でトラックにひどいフェーズを付け加える誘惑にスタジオで逆らうにはあまりにも初心だったことで、それによってアルバムのバージョンが貧弱でウケを狙ったものへと変わってしまった。「パントマイム・ホース」は今でも、スエードが作ってきた中の最も偉大な曲の一つだ。バーナードが初めて曲を披露してくれた時、それは違う拍子記号で、それを6/8拍子にしようという僕の提案は、スミスの「ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア(That Joke Isn't Funny Anymore)」に影響を受けていたと思う。兎に角、それは上手く行き、僕は激しい情熱的な大団円の、微かな自己憐憫の歌詞を書いた。最後の「そんな経験したことある?(Have you ever tried that way?)」という叫びは、性的な嫉妬から生まれただけではなく、徹底的であることも意図されていて、階級と貧困と特権への疑問の大演説だった。

CBM その92

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 勿論、それは複雑な出来事のタペストリーだったのだが、おそらく僕を変えるための最も力強い一つのエンジンで、育っていくバンドのケミストリーと作曲者としての展開から離れて、僕は一個人になろうとしていた。もし僕が柔らかく陽気な小さな泡を残していたら、スエードは誕生しそうになかったし、きっと色んな意味もなく、だ。若者として、僕は心地よい気だるさに浸る傾向があり、それを克服するために地震のような経験をして、僕が感じていた喪失と怒りの感覚を表現し、進歩して、バーナードがずっとしてきたことに適合する必要があった。不幸に直面した時、僕はアーティストとして最高の能力を発揮してきた。何かに反対したり障害を乗り越える時に。物事を気楽に捉えすぎるといつも、スイッチを切って詰まらない作品を制作した。うんざりするほど、使い古された「苦しめられたアーティスト」のパラメーターの原型におそらく僕は制限されているのだろう。創作の触媒として緊張と摩擦を追求する必要にある。死別と失恋のボディーブローは僕の中に完璧な環境を生み出し、それはまるでシャーレの中のバクテリアのように、何か熱狂的なものへと増殖していった。真実は、その出来事の前の僕の作曲には型式や音調や本当の人格を必要としていたことだった。生き方の一つを美化した「ビューティフル・ルーザー(Beautiful Looser)」のような記録をするぼんやりとした感性があったけれどーー「シーズ・ア・レイアバウト(She's A Layabout)」や「ナチュラルボーン・サーヴァント」のような貧弱な歌で、理想化された給付金生活と怠惰と午後を、オーストラリアのメロドラマを見ながら座って無駄に過ごすーー詩や技術や機知なしに、ステレオタイプでしかないそれを彩ろうとした。振り返れば、僕は僕の家族の卑しい素性にいくらかの優雅さと威厳の意味を注ぎ込もうとしたのだろう。僕は僕の両親とその両親が貧困の灰色の四枚の壁の中で生きて死んだことをずっと悲しく感じていて、お古の服と無料の学校給食と意味も将来性もない仕事の僕らの見窄らしい世界に意味を与えようと必死だった。それは一種の逆転した俗物根性とおそらくは父親から受け継いだエリート主義から生まれ、よって僕は僕が生まれた社会的なパラーメーターを祝福すべきものと見たのだ。ああ、僕に他の選択肢があったのだろうか? それは僕がすぐにでも逃げ出しそうにないことのようだった。不幸なことに、作曲はぼんやりとした微かに不快なものとして現れ、ちゃんとしたメロディーの指揮なしに、本当の存在と一突きに欠けていた。喪失の苦しみと置換の混沌でイライラし、けれども、それらの考え全てが突如として要を得た存在に結晶化し、事件の感覚と情熱が注ぎ込んできた。突然に素晴らしく、歌が出現し始めたのだ。僕らにとって他の大きな跳躍は、よりよいフレーズへの欲求と作曲におけるセックスの出現でもあった。必ずしも性的に刺激的てあるとはしないが、歌詞の卑猥な言及は、音楽の芯を意味している。弾むリズム、主要なギターのパート、急上昇する僕のシンガーとしての野放図な歌い方。「ナチュラルボーン・サーバント」や「ソー・リベレーテッド」のような初期の曲のデモを聴くと、僕がそれらを表現する最も正確な言葉は「無性(sexless)」だ。処女や童貞が作ったような音楽に聞こえるー性欲やそれについての問題もなく、情熱も根性もなく、ただ感じるのは自意識過剰な冗漫さと跛行だ。僕とバーナードが自分自身を深く掘り下げ、怒りと憎しみと欲望の初期の上昇に踏み行った瞬間が、僕らが本当に作曲家として成長した瞬間だった。ある日僕はレイトンのバーナードのフラットに行ったら、彼は僕を中に案内して興奮してデモを披露した。それは弾む、部族的なドラムマシーンのパターンで始まり、ぐさりとするほぼグラミー賞もののギターの厚板がついてきていた。お互いを見詰めて、僕らは何かが変わったことを知覚したと思う。僕はカセットを持って急いで帰宅し、昼も夜も書いて過ごし、朝になるころには「ドラウナーズ」ができていた。その歌は、ある意味、僕ら全員の人生を変えるよう運命づけた。ムーアハウスロードのバルコニーで座って喫煙して、古い持ち運び可能なタイプライターを叩いて、アランが帰宅したら興奮して取り乱して彼に襲い掛かり、誇らしげに彼の顔に歌詞を押しつけ、僕らは何か特別な存在になろうとしていることを悟ったことを覚えている。どんな意味であろうと、「ドラウナーズ」は決して実際に分裂に「関係する」曲ではないが、「パントマイム・ホース」と「トゥー・ザ・バーズ」と「ヒーズ・デッド」と「ムービング」と他の多くの曲は、孤独な黒炭の朝に引き裂かれた、熟慮と後悔のプールから生まれた。そして振り返れば、だからそれら全ては、マイケル・J・フォックスの有名な、束の間ゆっくりと正体を表す痛みについての言葉の知恵のように価値があるのだ。これらは貧弱ではなく、意味のない調子はずれの歌でもない。聳え立ち情熱的で、優美さと事件と暴力で縁取られている。突然に意味を成し始めたのだ。失敗と激しく苦しい嫉妬は僕が書いている曲に注ぎ込まれ、物語と意図を曲に与えた。ようやく僕らが「権力」を手に入れたような感覚だった。
 「ドラウナーズ」はわざと迂遠だが、僕が展開させよく見慣れた息詰まる失敗した関係性を設置した曖昧なテーマの弄びだった。僕が出会ったラウラというカナダ人の女の子と過ごした時間をだらりとした元にしている。彼女はホックニーのヴィクトリア・パークの真向かいの家を不法占拠していて、ぼろぼろの家々、今では百万ポンドの価値があるだろうが、九〇年代初めはキャットフードとパチョリ香油の臭いでいっぱいで、よろよろ歩く鼻輪をした薄汚いパンクの若者とストライプのタイツを穿いたヤクをキメたドック・マーティンのブーツを履いたゴスの女の子の群れに汚染されていた。彼女は熱狂的で、時として辛辣で、友人と僕は神秘的で、時として魔女的な彼女の存在に終わりのない時間を楽しんだ。彼女のレースに覆われた陰影に富んだタロットと香料とホール(訳者註・コートニー・ラブのバンド)の世界に。「私をオカしている(taking me over)」という繰り返しは、「フック」の効いたボーカルの強さを本当に習得した初めての時だった。子供じみた単純な至言の響きは捉えどころがないが、追求する価値がある。

CBM その91

ブレ様自伝翻訳行きます! 基礎的学力のないパッパラパーが訳したゲロ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 アランがポテトを揚げている間、僕はもっともっとバーナードと時間を過ごすようになり、僕らは近しくなった。僕は決して集団に属することが好きではなかったーーそれは僕を困惑させ怯えさせ傷つけるものだと思え、なぜだか自分自身を保てなかったーーけれど、一人の人間と向き合うのはくつろげてゆったりできた。僕が思うに、僕とバーナードは実際に、このようにコミュニケーションをするのがより楽だと思う種類の人間で、バンドの社会的ヒエラルキーのスポットライトから遠く離れて、今僕は独り身でスペースがあり、僕らはより自由により楽に一緒にいられた。時折彼が身につけた怒りっぽい仮面の下で、僕の壊れた世界の破片を一緒にくっつけようと優しく手助けする優しく思慮深い男の子の存在が明らかになった。正直、僕とバーナードの「関係性」について語ることは難しいと思う。数年後に僕らがThe Tearsとして再結成した時、僕らにはイライラするおしつけがましい問題となり、ぼんやりとした気を散らす存在はインタビューに支配的となっていたようで、僕は否定と誤認の山に何かを付け加える気にはならない。僕らは僕らが書いた曲と誇りに思うアルバムについて語りたかったのに、つまらないゴシップに満ちたインディーのハロー!(訳者註・イギリスのゴシップ雑誌)の、女性向きのカバーストリーのような、メロドラマと個人的な物語に他の皆は取り憑かれていた。労働と成功の坩堝に共に叩き込まれた二人の人間がいたら、緊張とフラストレーションが生まれるが、そこには愛と尊敬と本当の温もりもまた必要だった。事実、上手く作用するための真髄となる立派な作曲班の中でのいい議論と摩擦があった。押しては引くことと、突き刺し追い立てることと、生来のチャレンジ精神はケミストリーの極めて重要な一部で、約束の一部としてどちらも受け入れる必要があり、それを取り扱う方法を学んだのだ。今でさえ、三〇年近く経っても、何十年も経験を積んだ比較的成功した作曲家となっても、アルバムを作ることは、僕と一緒にアルバムを作る人たちとの間の個人的な関係性の伸展と境界の厳しい試練だといまだに思っている。自分自身の肩を優しく叩き、失敗と怠惰は過去におけるポイントで、挑戦というのは本当はいつもいつも自分自身への挑戦だと思い出させるまで、自分が誰かの上に投げ出されるフラストレーションだったり失敗と怠惰への子供じみた非難だと思うだろう。僕とバーナードの関係は尊敬においては何の違いもなかった。ただ単にメディアが僕らにスポットライトを当てたことが誇張されてある時に熾烈になり、許し難い睨み合いの中、分裂は突然変異し歪められた。僕らは摩擦は全く「個人的」ではないと理解するのにはあまりにも若くて、それは、僕らが取り扱い方を知るには初心過ぎた創作過程の単なる副産物に過ぎなかった。悲しいかな、そういう軽率で不可解な傷をメディアが引っ張っている間、最終的に内破と崩壊に導かれたが、早い時期の頃の一緒に過ごした温かく愛情に満ちた思い出を僕は持っているだけだ。そう、沈黙としかめ面は創造性の道にいつも散らかっているが、この時は、歪められた成功のプリズムと金に永遠に彩られる前に、僕らは友達だったと思いたい。明らかに、僕たちはかなり違う人間だったけれど、人々が思うであろうほどには違わなかっただろう。僕の経験上、バンドメンバー間の事件の噂が立ったら、内部機関の外側で自動的に推測され、彼らはレンズを通じて言葉の解釈と曲の意味における摩擦について知っていると考えているのだ。数えきれないほどこの歌やあの歌はバーナードに“ついて”の歌だ、だってバンドの動きに関係している“かもしれない”要素がある“かもしれない”からだ、という文章を読んできていて、実際その歌がほぼいつも全く違う時、ベールに覆われた起源があった。僕は同じことがザ・リバティーンズThe Libertines)に次の10年間に起こったのを見て、皆が読んだ彼らについて書かれたことは彼らの連結された人格の嵐のようなロマンスに流れ込み、そう、僕らのケースのように、殆どは完全なるフィクションだった。ただ、僕は多くの人にとって背後の話が重要だということも完全に理解している。物質と重量と焦ったいベールの布で陰謀と噂が音楽に吹き込まれるのだ。重要なのはそれが全く主観的であり、絶対的な真実などなく、それは作曲者においてもだ、ということを思い出すことだ。
 僕らはレイトンのバーナードの家にセントラルラインで定期的に行きつ戻りつするか、彼がノッティングヒルに来て音楽と陰謀と計画に傾聴し、それら全て僕らが書こうとしている曲に流れ込んだ。その、彼がまだ末期的にダサかった頃、僕は初期のボウイを再発見した時期で、「クイックサンド(Quicksand)」の歌詞に取り憑かれ、特に“権力(The Power)"への彼の言及は、僕が捉え難い作曲の鍵だと解釈する重要な何かの始まりで、ある寒い午後にそれについて無駄口を叩きながら、バーナードのフラットで安い暖房の前で床に座っていたことを思い出す。僕のようにボウイの全作品をバーナードが知悉していたかは定かではないが、彼はそれに恋に落ち、それは音楽になり、後の狭いジャケット、僕らがよく言及したスミスと共に、初めに僕らを定義した。

CBM その90

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 フラットには常に、付き纏ったり招待し返したりしてぶら下がっている奇妙な人物の動物園があった。オーストラリアの漂流者や二〇代のスウェーデン人の乳母や微かに傷ついた脆い住人が、道のどん詰まりの公営住宅のフラットにいた。夜遅くに「ビューレイ・ブラザーズ(The Bewlay Brothers)(訳者註・デヴィッド・ボウイの歌)」を聴きながら、座ってタバコを吸って話して、時折僕は古いアリア・エレコードを持ち出して、彼らを座らせて、「ザッツ・エンターテイメント(That's Entertaiment)(訳者註・ザ・ジャムの歌)」や「ア・デイ・イン・ザ・ライフ(A Day In The Life)(訳者註・ビートルズの歌)」を演奏した。僕らの友人、タムジン・ドリュー、偶然にもオートホールに通った、フラットの側をヴィクトリア朝の亡霊のようにふわふわ漂ってよく座って、猫に話しかけたり、彼女の美しい、シュールレアリズムの絵で僕らを素描したりした。またローリーという友人は、人生に出来うる限りの多大なLSDを持ち込んでいた優しいヒッピーで、裸足で目をギラギラさせて物語と驚くべき理論で縁までいっぱいになってよく僕らを訪れた。それはかなり柔和で無邪気で甘美で明るく錯乱した狂気で、皆が帰り冷たい夜が再び僕を包むまで、別りと死別の対をなす苦痛を和らげるのを助けた。
 ムーアハウス・ロードのフラットはある意味でデビュー・アルバムの構成の重要な要素になった。全ては壊れて手垢のついた使い古しで、だが神秘的で魅力的で、ゆっくりと、褪色した優美と厳しく硬直した貧さの熱狂的な二重性は、僕が作曲しようとしていることとバンドを形作るビジョンに染み込み始めた。それは僕らの外世界の小宇宙となり、初期の曲に着想を与えたしつこくけばけばしい事件の、見窄らしくも素晴らしい舞台は演奏された。全ての奇妙な酩酊した品評会とありそうもない瞬間、時計のゆっくりとした動きを眺める静かな死んだ目の時間。それら全ては僕が書こうとしていることに流れ込み、後にプレスが理解するアルバムやバンドと同じくらい重要になった。これらの巨大な個人的な影響がメディアの注目からほぼ常に逃れていることはおかしく、理解できることではあっても、彼らは関係性の天体の埒外にいるのだ。けれど重要なことは、僕がかつて生活した、僕の友達や恋人や街やストリートやフラットは、全てのロック・ムーブメントとして僕の曲に影響を与えていることを理解することだ。

CBM その89

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 僕は早い時期から何年もアランのことを知っていて、彼の気難しい悪戯っぽい魅力とほぼ無慈悲な快楽主義の精神を愛してきた。ウェスト・ロンドンの端でフェイク・ファーのコートと洗われていないズボンをはいてがさごそ探し回りながら、僕らは異常に近しくなった。何年か後に彼は僕に「ハイ・ライジング(High Rising)」と「ザ・ビッグ・タイム(The Big Time)」の歌詞を書く着想を与え、カミング・アップの前半の曲の僕の理想化されたロンドンの売春婦の素描に大いなる役割を演じる。違う意味で「ザ・ビッグ・タイム」と「ハイ・ライジング」は両方とも彼への悲しい別れを意図して作られた。前者は成功と野心で作られた微かに無慈悲な分離解剖だが、「ハイ・ライジング」はもっと優しい意味がある。僕が早朝に起き上がり飛行機に乗った数え切れない朝から生まれ、ヒースロー空港から離陸し、ロンドンを空高く舞い上がり、窓際の席から見下ろし、彼が起きて僕らの乱雑で混沌とした小さなフラットから手を振ってくれていると想像した。ウィズネイルと僕(訳者註、ブラックジョーク・コメディーの映画)は僕らにとって避け難い試金石で、リージェント・パーク動物園の感動的で美しい最終場面はこの二つの曲の霊感のツボだった。90年代半ばのガラス張りのテーブルの周りに共に座った終わりない煙まみれの夜と、僕らが知り合いになった奇妙で普通ではない友人たちの行進は「ビューティフル・ワンズ(Beautiful One's)」の歌詞に直に吹きこんで、僕はあの時の間抜けで錯乱した狂気を捉えようとした。終わりない二日酔いと、孤立させられた友愛と婚約への拒否の感覚は、僕らが前の晩のゴミの中でジタバタともがく「レイジー(Lazy)」のような曲の基盤となった。アリエル・レヴィーを引用すると、「私たちは容赦ない二日酔いだ。ーーだがそれらを共にした」僕らはキャラバン(Caravan)という甘いクローブのタバコを吸い始めた。火をつけるとパチパチと音を立てて暗褐色になり、風味の良い甘ったるい匂いでフラットを満たした。僕らはそれらを切望して、それを唯一売っている店まで時間をかけて歩いて行って、それはトッテンハム・コート・ロードのすぐのタバコ屋で、セントラル・ラインを行きつ戻りつする時に定期的に立ち寄る場所だった。アランはサリーのフィッシュ・アンド・チップスの店で働いて、正午にベッドから体を引き摺り出して、ヴィクトリアへと苦労して進み電車に乗り、工場の高脂肪のフライヤーに密着して昼と夜を過ごし、タラの揚げ物の悪臭をさせて深夜にフラットに帰ってきた。彼がアフターシェーブローションを塗った後、ジョッキを飲もう(訳者註・原文はscore potであり、potにはマリファナの意味もあるので、マリファナを手に入れようとしていたのかもしれない)とオール・セインツ・ロードの周りをうろつくか、時折朝の二時までチーズフォンデュとイェーガーマイスター(訳者註・ドイツ産ハーブスパイスリキュール)を提供してくれるウェストボーン・グローヴのザ・タイローラー・ハット(The Tiroler Hut)という奇妙な深夜のオーストラリアのワインセラー・バーに行った。アランは懸命に働き、少しの金を得たので古い暗灰色の1960年代のダイムラー車を買って、クレイ兄弟(訳者註・イギリスの有名な双子のギャング)のように感じながらガタガタ音をさせて走り回った。不運なことに、彼は信じられないくらい運転が下手だった。彼は実際の試験に合格したのか、それとも双子の兄弟の免許を使っているのかは決して言わなかった。兎に角、アランと車に乗り込むことは危険なことだった。三週間で三台の車を潰し、漸く彼も諦め、僕らはまたどこに行くにも地下鉄を使った。彼と高速道路を行くのは恐ろしいことだった。ある冷たい霧のかかった朝助手席に座って、ケンブリッジダンスホールで遊んだ後、僕ら二人ともかなり疲れていたことを覚えている。僕らが彼らの硬質な肩の近くでジグザグにヨロヨロしていていると、超巨大な車が僕らの後で飛沫を上げて雷のような音を立てて、彼らの角笛をクラクションのように鳴らした。彼がキャラヴァンをずっと終わりなく吸いながら震えて喋って歯を剥いて唸っていて、僕は絶望的な気持ちで彼を集中させて二人とも生き残らせるよう頑張った。批判の矢面に立たされたのと明らかな記憶の欠如により、90年代後半に金を得ていい車を買ったけれど僕には免許がないので運転手が必要だったから、アランにその仕事をやった。僕がプロを雇う前に1日だけ保ったと思う。

 

>ぱすてんさん
コメントありがとうございます。
私も英語だし、ドラムは全然分からないのでまたじっくり調べてみたいと思います。
悪魔さんのことに言及がないのは、ブレ様の意地なんでしょうかね? 口にするのも不快、的な。
後40ページくらい残っているんですが、頑張って訳したいです。ありがとうございます!

CBM その88

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 僕が移り住んだのは、ノッティングヒルとベースウォーターの間、今不動産業者がアルテシアン・ビレッジと呼ぶ、次の25年間僕が暮らすロンドンの一部で、小さな孤立した土地のムーアハウス・ロードの、壊れそうな、前部分が漆喰の、2階のフラットだった。今のその地域は派手で豪華で富裕で、金と特権の静かな囁きの連なりだ。九〇年代初頭、ヒュー・グラントジュリア・ロバーツに好転させられる何年も前、褪色した並びの、かつて繁栄したヴィクトリア風のテラスは寂れた板を打ちつけられた家でいっぱいで、暗く鎮座し歯が欠けたように空っぽで、ウェストボーン・グローブの店の代わりに、スー・ライダーとキャンサー・リサーチのような慈善商店でいっぱいの、唯一買えるコーヒーはインスタントだった。僕の古い友人のアラン・フィッシャーはブライトンでの生活に飽き飽きし、ベッドを二つ置くには十分な小さなフラットに移り住み、わずかな家賃の半額を払った。安っぽい金属製のシンクと剥き出しの壁にも関わらず、僕はそのフラットを気に入り、ゴールドボーン・ロードの見窄らしいポルトベロ・マーケットの端からつまみ上げたガラクタで飾り出した。僕はハガキとイメージでそこを覆い、七〇年代のポップスターの無規則な皮肉たっぷりの写真と、古いアルバムのスリーブで、そして僕は玄関の鴨居に古いガラス玉をかけ、シュールなびっこを引いた黒いプラスチックのロバをバルコニーに置いた。角の教会のゴミ入れの側によく人が捨てていた路上から殆どの家具を僕らは見つけ、アランはヌマガメを風呂に住まわせた。フラットは電球の光の赤らみに浸され、そこには奇妙な安いオブジェと白黴の山と古本と古いアルバムの堆積がいたる所にあった。僕らは黒いのら猫を見つけて、彼をミースク(Meisk)と名付けた。彼は完全に蚤いっぱいでやってきて、部屋は寄生され、床板に手を置いたら、小さな体の巨大な軍隊で黒く変色してしまった。2.3年後に僕がアメリカツアーをしている間に、彼はいなくなってしまった。僕はある日ウィスコンシンでアランをディナーに招待し、物事は順調か尋ねると、万事順調で、ただ猫が2、3日前に消えたが、最終的に「ちょっとふっくらして」帰ってきたと言われた。僕は渋面を作ったが、やっとロンドンに帰るまでは何も考えず、不潔でツアーで疲労し、完全に違う猫がベッドに座っているのを見つけたのだった。アランはパニックになり、うっすらと似ている最初に見つけたのら猫をミースクの代わりにしたのだった。僕は彼がどこで攫われたか苦労して探し当て戻したが、ミースクは何も言わずに去り、彼の小さく滑らかな体と強烈に無関心な顔は友のいないロンドンのストリートに永遠に失われたのだった。

 僕とアランはマイク・リーの初期の映画とオートン(訳者註、ジョン・オートン)のEntertaining Mr Sloaneのような作品と、特にニコラス・ローグのPerformanceに、ポウィス・スクエアの道を下った所で撮影された、何回も見て会話を学習し、ノッティング・ヒルの他の奇妙な腐りかけの家に住む異常な辺境の映画のキャラクターを並行して楽しんだ。上の階のフラットには、成功以前のアニッシュ・カプーアというアーティストが住んでいて、彼の上のフラットは筋骨逞しいゲイのスキンヘッドのケヴィンという奴が占拠していた。情け容赦ないが、優しく思いやりがあり、友人には凶暴なまでに忠実だった。彼と恋人は10年後に2人ともエイズで死に、僕は彼らのことを「ザ・リヴィング・デッド(The Living Dead)」の歌詞に書き、彼らの麻薬常習協定の苦しみから何とか詩を搾り出そうとした。

 

>ぱすてんさん
アプリからだと記事は更新できてもコメントの返事ができないので、こちらで返信失礼します!
翻訳読んでいただけて興味深いとまで言っていただけて嬉しいです。
トム・パターン、原文でtom patternなのですが、tom pattern drum で検索したらドラムの叩き方が出てきたので、そういうことみたいですね。
トム・パターンだけで検索してもトムとジェリーのパッチワークしか出てこなくて泣いてたんですが、助かりました。
修正しておきます。ありがとうございまいした。

CBM その87

ブレ様自伝翻訳行きます! 過去を顧みる気なんて欠片もないうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 パトリック・ハミルトンの戦慄の調べのジョージ・ボーンのような気持ちの若い男の人生のぼんやりとした見本について僕は考えている。疎外され拒否され、永遠に受容の淵に立ち、柔らかな蜘蛛の巣のように軽く繊細な女性的な世界に残酷に否定され、指先から離れた所にじれったくその喜びは垂れ下がっている。それはこの冷たく無機質な友のない風景への帰還であり、僕はこの恥ずべき降格にもがきながらそこに帰還したと感じ、とぼとぼと独り者の見覚えのある犬の糞塗れの道へと戻って行った。臨床的な言葉を使わされるのなら、僕は自分の芯は共依存的だと表現する。他者と空想を通じた完成を探す夢想家で、奇妙なことに僕自身に全てぴったり当てはまらない。これは僕の、不均衡な中の欠点だが、概してコンスタントに作曲する必要に僕を駆り立てるモーターでもあるのだ。人生に存在しない芸術の完璧さへの創造の探索に関する古臭い決まり文句で満ちた。確かに、この巨大な僕の人生の移動は、僕がなろうとしている人間を鋭敏に表現し始め、苦痛が一旦薄れると、僕はようやく、僕が初期の成功時の奔流の間にスタイルとして模索した明白な女性性の形状の中の喪失を消化した。人々は偽りのゲイ仕草や七〇年代グラムへの首肯や何か似たような惨めなものとして解釈するだろうが、振り返れば、僕自身が作り上げた模造の人生から消えた女性を取り戻そうとしていたと確信している。それは奇妙で思い違いに聞こえ、自然とけばけばしくなり、より微かに滑稽で、だがその中心には、スエードの繊細さに関係する多くのことがあり、それは苦痛の表現だったのだ。完成したと感じたと同時に、死と喪失が齎した空虚さの裂け目に直面し、僕は文字通り平衡感覚を失い、それを矯正する必要になった。今観察してみると、貧弱で感傷的で微かに痛ましく響く。僕のこのことの扱い方は誇れないが、混乱した時であり、僕はまだ感情的に未熟で、色んな意味で人間として未完成だった。振る舞いで人々を矯正しようという考えは初期の曲に流れ込んだ。「ドリー」のような曲はとある対象への非常に計画された感情で、この場合はファッションモデルの、フィル・スペクターの有名な捻くれた、彼によく似たダミーの周りをドライブするよう彼の妻に要求した逸話に部分的に影響されている。何年も後、「ラースと、その彼女」という映画が鮮やかに、機知と共にこの主題を扱い、ポップミュージックのその起源はおそらく初期のロキシー・ミュージックの歌だけれど、その時僕は人々の思い込みにもかかわらず、そのことに意識して気づいていなかった。