Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その9

  僕はスコットランドの伝統からは距離を取らなければならない。明らかに、苗字のせいであるのと、祖父が王立スコットランドフュージリア連隊のマーチングバンドでバグパイプと太鼓を演奏していたからであるのだ。彼はよそよそしく、堅苦しい見た目の、古めかしいタイプの男性で、マカッサル油で撫でつけたべたべたした髪と酔ってやつれた顔をしていた。その人物が二回死んだことを後に皆が詳しく知ることになる、数少ない奇妙な一人だった。許しがたい暴力と酩酊して起こした事件の連続の後、彼の結婚生活は破たんした。そして古い軍人の友や安宿で眠る生活になった。真実は不明だが、ホームレスで酷いアルコール漬けの生活に陥った。だから、九十年代のいつか、長い仲たがいの終わりに、公園のベンチで幾晩かすごした後、彼が死んだことを聞かされた時、誰も驚かなかった。その知らせを父は奇妙な無関心さで受け止めたように見えた。けれども、少なくとも10年後、父はある施設から彼の父の葬儀の費用を幾らか払ってくれないかという電話を受けるのだった。実際祖父が、さまよいながら飲みながらどこまでも急降下しながらも、ずっと生きていたことが知れ渡ったのだ。父は、彼が家庭を恐怖で支配したことを決して許すことができなかったし、そんな苦い憎しみを彼に抱きながら、ショックを受けていたが、費用を支払うことを拒否した。

 父は身体的に僕を傷つけなかったけれども、父が抱く怒りは恐ろしいものだったし、そしてそれは引き継がれるノイローゼとして僕に受け継がれているのだろう。父がとても支配的で、いつも部屋を出て行く時はどこに行くか彼に告げることを求めた。今になっても、僕は小便をしに行く時は妻に言わなければいけない。それはまるでショーシャンクの空にモーガンフリーマンの役が見つけた仕事がスーパーマーケットでの袋詰めだったようなものだ。またある時には非常に対決的で、政治と音楽について常軌を逸したり非現実的な意見を言った。僕がようやく思春期にさしかかったころ、彼に反抗し始めた。僕たちはずっとぶつかり合い、ポップミュージックとクラッシックの優劣についての苦い議論では何度も続いた。クリスマスの後のクリスマスも緊張に終わり言い争いに満ちた。紙の帽子をかぶって憂鬱にテーブルにつく一方、父は熱心だが要領を得ない様子で僕にチャイコフスキーの「悲壮」は、ローリングストーンズの「サティスファクション」より素晴らしいと証明しようとするのだった。その経験は音楽についてとても頑固にしたし、きっと僕を生涯にわたって素晴らしく自分について喋りすぎるようにしたのだろう。