Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その12

ブレ様自伝の翻訳行きます!TOEIC800レベルのど素人が直訳したもんですんで、それをご了承ください。原典読まれて、明らかな誤訳があれば教えていただければ嬉しいです!

 

 僕が六才か七才のころ、ブランディーヌと僕は日曜学校に通い始めた。僕らの地区の端っこにあった白いレンガの一階建てで、マーシュ夫妻という弱弱しい老夫婦によって経営されていた(姉はいつも、彼らがボグ・コテージ(沼の家)っていうところに住んでいればよかったのにね、と冗談を言った)。どうにせよ、僕はまだ子供で、僕が学んでいる聖霊の真実の位相について理解できなかった。そのことを思い出しながら、明るく無抵抗な無神論者の両親に、教え込まれた過程を説明しなければならなかった。きっと、僕を惹きつけたのは、年末にあった、出席日数に応じて賞品を得られる「授賞式」だったのだろう。週ごとに貰った出席日数のハンコの数によって、子供じみた安っぽい装飾品や本が与えられたのだった。無論、あこぎな子供もいて、その日だけ現れて賞品を得て、点をつないで絵を作る本や似たような価値のない宗教的なガラクタを、誇らし絵に見せびらかしながら家に帰るのだった。

 僕らの家は台地の端っこにあり、ビングと呼ばれる優しそうな歯のない牛乳配達員の男とその家族が隣に住んでいた。小さなころからだったけれど、我が家と他の家庭との本当の摩擦を僕は感じ取っていた。僕が思うに、彼らの殆どは僕らを冷ややかでお高くとまっていると感じていた。隣家の手に負えない子供は夜遅くに大きな音を立てて喋り、ヘビーメタルを演奏していた。ちょっとした悪ガキのグループがいて、僕の父を罵倒し、一日中サッカーボールを僕の家の鉄柵に向かって蹴り続け捻じ曲げさせた。僕の母の花を踏みつけにし、無慈悲にも、母の繊細で空想的なエドワード朝の牧歌生活を粉々にした。実際に、僕らの自家製の美術工芸に刺激された世界は、ステイタス・クォーのTシャツとプラスチック家具の時代精神には不愉快に違いなかっただろう。母が僕らの服を殆ど作っていて、コーデュロイ生地を着た群れとはかなり違って見えていて、よく馬鹿にされ挑発された。エディス・シットウェルへのヘイワーズ・ヒースの解答として父の評判が膨れていったのではなく、また、母の全裸で庭で日光浴する習慣が役に立ったのではないが、ゆっくりと僕らは地域に受け入れられ浸透していった。でも、僕らは余所者として見られていた。―――あのピアノがついた籤はあの家にあったよ、と。

 家の区画の外には草生した空地があり、そこでは子供たちが終わりのないサッカーゲームをして競っていた。その場所は遊びの音で鳴らされ、チョッパーバイクに乗ったならず者の群れは、空気銃で脅しながら暴れまわっていた。何年もたち、僕が帰るといつも、それが失われたことに打ちのめされるのだった。今や子供もいない静かな草生す空地、世代は育ち、白髪の親が残された。具合の悪い、離婚して捨てられた、「ノース・カントリー・ブルース」の詩の一節のように。