Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その31

ブレ様自伝翻訳行きます! 理屈で訳してないので、読む方も考えずにお読みください。原典読まれた方で、明らかに違う箇所ありましたら、ご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 父の奇矯さと暮らすことは、父の気分が突如として前触れもなく不機嫌になるという感覚が常にあり、家がピンター(英国の劇作家・演出家)の作品のような奇妙で陰鬱な劇場に突っ込まれるということだった。よく偏執狂的な発作に襲われ、人に監視され噂されていると抗弁するのだった。彼の人生の終幕に向かって、孤独と憂鬱が無慈悲な足掻きをもたらし、彼が生きたのはほぼ完全な闇の中で、カーテンは閉められ、外にいる誰かが常に彼を見張っていると確信していたのだった。ヘイワーズ・ヒースの端の闇のようにぼんやりと現れていたのは、聖フランシス病院、1850年代に建てられた、不気味な赤煉瓦の精神病院で、精神的に問題のある人たちの行き着く場所であり、多くのブラック・ユーモアの源で地域の伝説でもあり脅しと噂の源泉だった。より暗鬱な物思いに耽った彼の時の中、その陰鬱なヴィクトリア朝の廊下、担架と無慈悲で巨大な看護人の地獄の中に迷い、そこで一生を終えるのではないかという不安と恐怖に苛まれた。

 彼が生まれたのはそれと気付かずに教育にさほどの価値を見出さない家庭だった。そういう階級に生まれ、それを越えようと熱望しなかった。きっと、労働者階級の文化の「よくやった (boy done good)」というのが、フットボールや流行歌で成功する、1960年代の絶頂期にまだ手が届き、だから父は、知的で繊細な少年だったにも関わらず、低レベルな教育層をいやいや進まされ、数々のどん詰まりのつまらない、決して満足感と安定を与えない仕事を転々とした後、最終的に、気がつけばブライトンのケータリングの学校にいた。短い間アイスクリーム売りになり、庭師になり、窓拭き人になった。70年代後半の間は、彼が泳げないというにも関わらず、地域の娯楽施設のプールの監視人だった。相応しいポストにいたかは、神様しか知らない。火曜日は憂鬱だった。僕のクラスが水泳の時間に訪れ、他の子供が指をさし、忍び笑いの渦に崩壊する中で容赦なく苦痛を与えられた。80年代になり、ようやくタクシー運転手の慎ましいキャリアに落ち着き、彼の頼りない車は我が家の不安定さの象徴になった。この時には、モリス・トラベラーから、中古の中程度のボルボに変わったが、それは永遠に故障し、オーバーヒートし続けるのだった。母と姉と僕は、病気の子供を持って不安な親のように、いつもそれの状態が良いか心配して待っていた。それがひどく僕らの栄枯盛衰に影響すると気づいていたからだ。振り返ると、その重圧は悪影響を出していた。物質主義者でも野心家でもないのに、不安の影と経済的なストレスが常にあり、それが大きな分裂となって彼に現れ始めたのに違いない。母と怒り狂って衝突し、嵐となって火花を散らし、僕と姉は寝室に縮こまり、強迫神経症的に呆然とした中に閉じ込められ、何に傾注すべきかしないのかも分からず、怒り狂った言葉と食器が割れる音とピシャリとドアが閉められる音が紙の薄さの壁を伝わってきて、罵詈雑言から避難していた。僕自身、家族を養うことがどれだけ大変な仕事か知っている。その時代の事実上生活最低基準の賃金で苦闘する父の無私で崇高な一面に、僕は完全に気付かず、フットボールと数学の勉強(double maths)の子供の世界にどっぷりと浸かっていた。