Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その40

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 ちょっと横道に逸れる。1984年に戻って、この時点に、僕はトップマン(メンズファッションストアチェーン)のセールで買った安っぽいレモン・イエローのスーツを着てぶらぶらすることを好むようになった。僕が想像するに、それがボウイ風の洗練さを示しているように思えたからなのだろうけれど、実際はより安売りのクリフ・リチャーズ(歌手)に見えていただろう。二人のサイモンはどちらもヘビー・ロックを好きになり、UFOとラッシュのような、僕を冷めた気分にさせるバンドの全てのギャマットを聞くようになった。だから僕はそこに、一種の過度に複雑で鈍いミュージシャンシップの張り合いへの、僕らによる世間知らずな試みがあっったのだろうと思う。僕らみんなピストルズとボウイが大好きだったにもかかわらず、でも捻くれたことに、70年代の傑作に沿って、僕らは彼の初期のボードビルの顕現を愛した。「プリーズ・ミスター・グレーヴディガー」「カーマ・マン」「メイド・オブ・ボンドストリート」のような、劇場的な気まぐれな数々の歌を。サイモンたちはまた、僕にティラノサウルス・レックス、ティー・レックスの初期のフォーク調の試作品を紹介してくれた。僕らは、頻繁にある故意の饒舌で皮肉な神秘的なタイトルと奇妙で蠱惑的でヒッピー調の歌は素晴らしいと思い、僕の部屋のそこに座ってアルバムジャケットを凝視していると、それはまるで違う時代への入口のように見えたのだった。ジャケットは散乱し、安いギターの背は僕らの腿の上にあり、僕の小さな寝室に閉じ込められた僕らの不様な調子はずれの曲を、一つ、また二つと骨折って進みながら座っていると、突然父がドアを押し開け、いななきブーイングをし、僕らを嘲笑いながら行進した。彼の感情が感興と憐憫の間で揺れ動く間、奇妙な表情が顔に浮かんでいた。父は並はずれて空想的で、際どい夢想家でさえもあったのだろう。僕の子供時代を通して、父はよく自信過剰に僕がどうやってピアニストになるのか喋り続けたが、僕にピアノレッスンや正式な訓練を受けさせるか考えて思い悩むことは決してなかった。けれどもある日、父が家に引きずってきたのは壊れた、古い縦長のピアノで、でもそれは酷く不快な音を出し、何年も家のキッチンの片隅にむっつりと座っているだけで、使われず、調律されず、愛されず、場所をとり、ティーカップの支えとなった。おそらくそれは、かつてポップ・ミュージックが扇動行為に酷く効果的であった世代との避け難い全ての挑戦の一部分だったのだろう。けれど僕がギターを選んだのは、父の中に潜在的な裏切りの感覚を起こす引き金となったのだろう。90年代に僕がリリースしたレコードが成功した時でさえ、僕が憶えているのは、父が僕の「ちっぽけなフレーズ」がヘクター・ベルリオーズの質に追いついていないことや、何か似たような欠点を悪意を持って呟いていたことだった。僕のキャリアで父にいい印象を与えられたと思う唯一の時は、僕らがようやく、ロイヤル・アルバート・ホールでライブをした時で、僕は父にパフォーマンスを見せられる席を用意して座らせた。父がとても親しんだクラシックの世界と僕の仕事を最後に結びつけられたのだろうと思う。でも、ライブの後で、ギターの音が歪み過ぎていると思うと批評せずにはいられなかった。「そうだね、父さん。きっとそうなんだよ」と、僕は言った。