Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その51

ブレ様自伝翻訳行きます! フワッと読んでフワッと訳したんで、読まれる方もフワッとしたご気分でお願いします。原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 80年代なかば、ザ・スミスのようなバンドに大見出しで紹介されたオルタナティブ・ミュージックは、ロックの教義に挑戦し、70年代の裏返しの様相を呈し始めていた。惰弱と失敗と日常の瑣末な仕事についての歌は僕に力強く反響し、C86のムーブメントに刺激され、僕らは不恰好なバンドにジオフ(Geoff)と改めて名付けた。馬鹿馬鹿しい、滑稽な凡庸さは、一種の平凡で歪んだ祝福として僕らに主張をした。僕らは非公式の制服に身を包んだ。裾を上げたジーンズ、大きな靴、奇妙な、ダーク・ブルーの工場労働者のデニム・ジャケットは先端を切った工場のコートのようだった。僕らは時折ブライトンにトボトボと歩いて向かい、他の全てのファッションの犠牲者と共に列に並びながらタバコを吸って、駅近くのフレディーズという床屋で2・5ポンドで角刈りされるのを待った。社会主義の図像を真似た80年代の学生ファッションに大変に刺激を受けた見た目だった。でも、僕が思うのは、僕らは、きっと間違えているのだろうけれど、自分自身の捻くれを披瀝したのだと信じていたのだ。僕は古い、赤のウェストーン・サンダー 1ーアクティブを、安いセミアコースティックの335のコピーのために下取りに出し、音をもっとジョニー・マーのようにしようと無為に試み、自分達の音を不正に追いやった。不幸にも、僕にはリード・ギターとして、バンドを引っ張っていくには単純に十分な技術がなかった。そしてちょっとパンデラの「セメトリー・ゲーツ(Cemetery Gates)」のようだと僕らが考えた曲は、おそらく実際にはハウスマーティンの「ハッピー・アワー(Happy Hour)」に近かっただろう。それにも関わらず、「ベッドルーム・ロック(Bedroom Rock)」と呼ばれる町のクズ新聞の支持者たちからいくらかのマイナーな注目を得て、限定された「ギグ」をした。想像がつくだろう、誰かの寝室に、つまらなさそうで興味なさげな観客を招き、彼らは曲の間中ぶつぶつ呟き、終えた時に楽しそうなふりをしているのを。

 時折マットと僕は彼の家で作曲した。ミドル・クラスの風格があるにも関わらず、彼の若い時期は僕の家よりそう優れてはいなかった。彼と弟のリチャードは似たような箱詰めの似たような憂鬱なヘイワーズ・ヒースの一部の小さな家で教師のシングル・マザーに育てられた。彼の家族は僕より優れた教育をされていたけれど、同じく囚われていたのはイギリスの階級制度の残酷な低い梯子だった。紅茶にはベークドビーンズ、石油ストーブの生気ない煙。リチャードは少し年少で、今もいつまでも間違いなく魅力的だけれども、滑稽なまでに気難し屋だと覚えている。ある日の午後、マットの部屋でくつろいでラブ(60年代のアメリカのバンド)の「フォーエバー・チェンジズ(Forever Changes)」を聴いていると、リチャードが急に割り込んできて、「60年代はゴミだ! ラブはゴミだ!」と叫び、再び怒りっぽい10代の正義感の雲の中に突進したのだった。