Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その71

ブレ様自伝翻訳行きます! 過去は振り返らない主義なので推敲なんて一切しません! なうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください。原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 この時点で僕とマットは正式にウィルバーフォース・ロードから引っ越して、ジャスティーンのではない、ノース・ケンジントンのハイレバー・ロードのトップの環状交差路の真反対でフラットをシェアした。ノース・ケンジントンケンジントンが全く違う場所だと知らない人のために書くと、それが今では極めて富裕だったとしても、当時は、ラドブルック・グローヴの間違った見本を超えた見窄らしい郊外の荒地に言及するのは微かに誤解を生んだのだった。フラットはビクトリア朝の建物の最上階で三つの寝室に分かれて、でもキッチン以外に共有場所がなかったので間借り人でいっぱいだった。がらんとして機能本意で、灰色のカーペットを敷いて微かに魂のこもっておらず、壁は「家主の薄ピンク色"landlord magnolia"(そのままの壁の色という意味か)」で、ウィルバーフォース・ロードのように感じの良いボロではなく、独特に寒々しく安っぽかった。僕らの部屋は、寂しい捨てられた草生したバルコニーに開かれたフランス窓がある建物の奥だった。他の部屋では平素20代かそこらの根無草の不規則なコレクションがうろつき、その中にはジャスティーンの洒落た愉快な学校の友人のジェラルディンもいて、家はカムデン・ヒル・ロードの彼女のフラットから図書館を渡ったとこにあった。何年も後に僕らが「カミング・アップ(Coming Up)」を制作している時、マットはウィルバー・ロードの真向かいの、ノース・ポール・ロードに引っ越して、12月には子供たちのサンタへのクリスマスの要望と手紙の悲しい洪水を受け取り、その住所はノース・ポール一番だった(The North Poleは北極点という意味だから)。事実上、そのフラットは時折僕らが滞在した「どこか」で、正直、そこは僕の部屋でさえあったけれど、僕より長い間住んでいて、卒業したばかりの彼は気が付けば浅はかで気まぐれな学位の霧の中にいた。僕らはよくルノーに乗り、マットはタオル地のドレッシングガウンを着て陰鬱に歩き、ビッグ・スープ(Big Soup)を食べ求人を探し求め、僕らはよく彼を励ました。僕らは楽器と二つのアンプは持っていて、だから僕らは「オーディション」を上演することに決めたのだった。広告は1989年の後半のデビー・ハリーが表紙のNMEに印刷された。僕らは意図的にメロディー・メーカーではなくNMEを選び、それはこういう類のことの伝統的な公共広場で、だから当時の僕らの理想主義はほぼドンキホーテ的で、この手の広告に答えそうな臨時雇いのミュージシャンの平凡な堆積を避けることを望んだのだった。その広告に書かれていたのは傲慢でイライラする、このようなことだった。

「経験不十分だが重要なバンドのギタリスト募集。ザ・スミス、リロイド・コール、ペット・ショップ・ボーイズからの影響あり。音楽オタクお断り。初心者お断り。技術より重要なことあり。」

二人の募集があった。最初はまさしく型通りの袖のないヘビメタTシャツを着た、僕らが避けたかった音楽オタクで、次に来たのがバーナード・バトラーという青年だった。僕は最初に、僕が言っているラドブルック・ロードのケンジントン・パークという犬好きの老人のパブで会おうと提案したけれど、その提案をした僕が、彼の「カーネーションでも身につけたらいいかもな」という皮肉たっぷりの返答をどのように認識していただろうか、僕は彼に住所を教え、その代わりに来るように言った。きっともう既にそのミーティングを価値ある舞台だとうっとりと見なしていたのだろう。