Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その87

ブレ様自伝翻訳行きます! 過去を顧みる気なんて欠片もないうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 パトリック・ハミルトンの戦慄の調べのジョージ・ボーンのような気持ちの若い男の人生のぼんやりとした見本について僕は考えている。疎外され拒否され、永遠に受容の淵に立ち、柔らかな蜘蛛の巣のように軽く繊細な女性的な世界に残酷に否定され、指先から離れた所にじれったくその喜びは垂れ下がっている。それはこの冷たく無機質な友のない風景への帰還であり、僕はこの恥ずべき降格にもがきながらそこに帰還したと感じ、とぼとぼと独り者の見覚えのある犬の糞塗れの道へと戻って行った。臨床的な言葉を使わされるのなら、僕は自分の芯は共依存的だと表現する。他者と空想を通じた完成を探す夢想家で、奇妙なことに僕自身に全てぴったり当てはまらない。これは僕の、不均衡な中の欠点だが、概してコンスタントに作曲する必要に僕を駆り立てるモーターでもあるのだ。人生に存在しない芸術の完璧さへの創造の探索に関する古臭い決まり文句で満ちた。確かに、この巨大な僕の人生の移動は、僕がなろうとしている人間を鋭敏に表現し始め、苦痛が一旦薄れると、僕はようやく、僕が初期の成功時の奔流の間にスタイルとして模索した明白な女性性の形状の中の喪失を消化した。人々は偽りのゲイ仕草や七〇年代グラムへの首肯や何か似たような惨めなものとして解釈するだろうが、振り返れば、僕自身が作り上げた模造の人生から消えた女性を取り戻そうとしていたと確信している。それは奇妙で思い違いに聞こえ、自然とけばけばしくなり、より微かに滑稽で、だがその中心には、スエードの繊細さに関係する多くのことがあり、それは苦痛の表現だったのだ。完成したと感じたと同時に、死と喪失が齎した空虚さの裂け目に直面し、僕は文字通り平衡感覚を失い、それを矯正する必要になった。今観察してみると、貧弱で感傷的で微かに痛ましく響く。僕のこのことの扱い方は誇れないが、混乱した時であり、僕はまだ感情的に未熟で、色んな意味で人間として未完成だった。振る舞いで人々を矯正しようという考えは初期の曲に流れ込んだ。「ドリー」のような曲はとある対象への非常に計画された感情で、この場合はファッションモデルの、フィル・スペクターの有名な捻くれた、彼によく似たダミーの周りをドライブするよう彼の妻に要求した逸話に部分的に影響されている。何年も後、「ラースと、その彼女」という映画が鮮やかに、機知と共にこの主題を扱い、ポップミュージックのその起源はおそらく初期のロキシー・ミュージックの歌だけれど、その時僕は人々の思い込みにもかかわらず、そのことに意識して気づいていなかった。