Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その97

ブレ様自伝翻訳行きます! 寒さでただでさえ動かない脳みそが動いていない人間が翻訳したクソ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 金で幸せを買えないかもしれないが、けれどそれの欠乏は人生をクソ惨めにし、ロンドンは貧乏だったら一層残酷だった。ジョンメイヤー政権の最低生活水準の年金暮らしの赤貧は耐え難くなり、職を探す時期だと感じた。まず初めに、傲慢無礼な不採用が徐々に僕の考えを下げるまで、経験も資格もないのに高い地位を探し、最終的に小売店の仕事を探すようになった。僕は常に過大評価か過小評価されていたような感じで、六ヶ月間継続的に応募して、ボンドストリートの文具店の面接に誘われたのだった。またしても不採用となり、最終的に赤貧状態を受け入れさせられ、仕事を諦めたが、作曲やリハーサルをしていない時の終わりのない空虚な吹き溜まりの時を満たすために何かする必要があった。どこからか誰かからか、ハイゲートにラウダーデール・ハウスというコミュニティー・センターがあると聞き、アーキウェイ・ロードの先から少し離れた、ウォータールー公園の片隅に身を置いた。ある冬の日にそこまで行進して、僕が何かボランティアの仕事をすることに協力するよう彼らが承服するまでグチグチネチネチ説得した。僕はシフトにつき、物を持ち上げ紅茶を淹れ受付に居座り、文学の講習会とヨガのクラスとドロップ・イン・センター(立ち寄ってくつろいだり相談したりできる公共の施設)に人びとを導いた。共同体の感覚と暖かさは心地良く、ハイゲート、残りのロンドンから奇妙に切り離された地域に愛情を感じ、僕の古い総覧から適切に追放された。引きこもり、軽くエキセントリックでほぼ時代錯誤な、困窮と抑圧と粉々の夜に裏切られた若い母親と孤独な妻のマスカラの縞がついた顔に取り掛かった後の、ドッグ・マン・スターの僕の受け持ち部分を書くために1994年に暫く戻った場所だった。彼女らの苦境はなぜか僕に共鳴し、ある日の昼休憩にチーズとピクルスのサンドイッチを食べて、ウォータールー公園のベンチでノートを取り出し、「スリーピング・ピルズ(Sleeping Pills)」になる歌詞を書いた。この曲は、しばしばそう解釈された、自殺へのメロドラマ的な抗議では決してない。時間を無為に過ごし柔らかに麻痺して一日をやり過ごすためにヴァリウムを飲む主婦への讃美歌に過ぎなかった。僕が時計の針を動かし何か起こることを待っている間、僕の前に度々伸ばされた空虚な終わりのない圧倒的な僕自身の時の、僕の強い共感の表れだった。実際、客観性の移動から作曲するのが僕に作用するただ一つの理由は、いつも強い感情移入をしていたからだと思う。僕自身の人生の断片と感情を満載した小さな肖像画だったから、それは決して明快な性格描写のように簡潔で不洗練ではなかった。「自分が知っていることについて書きなさい」と言われるように、僕はずっとそうした。バーナードが嵐のようなクレッシェンドを作り上げ吹き鳴らし、彼が書いた優美な引き潮のようなギターの断片を演奏したとき、僕の人間性が終着点を発見し、次のアルバムの鍵となる二曲のテーマへと戻るのだった。「スティル・ライフ(Still Life)」と「ザ・トゥー・オブ・アス(The Two Of Us)」だ。
 僕らの成長の繭から追放され、僕らはまたギグの匂いを嗅ぎ始めた。この時点で、優しく物腰柔らかな、今は悲しくも他界した、その漫画の子犬のような目は僕にいつもドルーピーか若い頃のトム・ハルスを思い起こさせる、ジョン・エディマンにアプローチされていた。彼はファイアー・レコードと仕事をしていて、界隈の最底辺にいた僕らに出会い、協力を申し出た。彼の影響力の低いビジネスの地位でさえ、コネと前進する可能性のほのかな光とぼんやりとした牽引の約束への接触に感じられ、彼のマネージメンとを受け入れることにした。マリブビーチの豪邸とマンハッタンの摩天楼に住むメジャー・レーベルの重要人物との会合への暗い煙に満ちたトランジットの裏の、酩酊してガチャガチャ言う旅から僕らを引き離して導くことを、彼は運命付けられていた。差し当たり僕らはしっかりと現実的だったけれど、鋼鉄のような野心と育ちゆく発火性の曲を保有し、そしていまだ成功の囁きにさえ近づかれていなかった。古い、お馴染みの、憂鬱な基準を満たさない螺旋を踏み潰した二回のショウの後、ジョンは僕らにカムデン・ファルコンの、90年代初頭のロンドンのインディー界隈の支えのパブの裏の隙間風の吹く暗い部屋のギグを取り付けた。低レベルな新人バンドと不可解なジャーナリストをだらしなく探している。僕らはそこで二、三回ジャスティーンとともに、その時点での僕のマイナーな英雄で、彼の冷たい、一歩引いた、性的な心象とジャック・ブレルのような淫らさへの賛歌で僕を魅了したモーマスMomus)のシンガーを含む薄い観客にプレイしたことがあった。ジャスティーンはパーティーで彼に会い、彼が撮影したギグのビデオが僕らを下がらせほぼ彼女の胸のクローズアップだけだったので、彼は彼女に夢中になっていたに違いない。とにかく、ジョンが企画したそのギグは僕らの「クリスマスショー」として宣伝された。この強制された偽りの陽気さの苦い皮肉はすぐに明らかになった。観客はすっかり二人で構成されていた。ジョンと彼の彼女のフィオナだ。凍りつくような一二月の夜で、混雑と体温の欠落は死ぬような冷たさに帰結した。僕の記憶がとどめているのは、僕らが寒々しく無意味に演奏している間、ステージの裏で彼が壁掛け式の暖房にあたる時をバンドのメンバーそれぞれが耐えていたことだ。