Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その98

ブレ様自伝翻訳行きます! 結構頑張って翻訳続けたけどなんら進化の見られないゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 このあたりから僕らがギアを入れて走り出すための助けを必要とし出したので、ジョンは僕らの仕事を手助けしてくれる人物を紹介した。彼の名前はチャーリー・チャールトン、暖かく、愛すべきティーズサイダー(イングランド北部Tess下流の旧独立自治体出身者)で、その時は奇妙な90年代初期のバック・トゥー・ザ・プラネット(ロンドンの無政府主義バンド)スタイルのドレッドヘアで、それは彼を漫画のアリのように見せていた。チャーリーは疲れを知らずに人を助け有能な人物で、誰もが密かに彼に父親になって欲しくて、事実、僕らも彼を信頼し頼り、後に彼をマネージャーに任命するほどで、僕らを本当の成功の最初の奔流を導き、最初の二枚のアルバムの高みへと届かせ、それを超えさせた。
 振り返れば。僕らは発生期の、ぎこちない勢いを展開させていたに違いないのだが、僕らはいまだ厳格に菓子屋の中には入れてもらえない感覚があった。そうして、1991年の冬の暮れ、驚くべきことが起こったー僕らはNMEの「オン・フォー‘92’」のイベント、急成長するバンドのショーケースに招待されたのだ。その「オン・フォー」のギグは当時はちょっとしたシステムで、NMEの影響と手が最高位で、彼らの承認はオルタナティブ界隈においての目に見える成功のまさしく重要要素だった。僕らはこれこそが僕らが待ち続けた好機だという空想に堕ちた。もっともらしい「大ブレイク」、僕らが自信を持ち始めていた曲の暴露、失業手当の列とみじめな貧困ではない何かへの逃亡の孵化になるかもしれない、と。寒寒とした一月の午後に、ニュー・クロスのザ・ヴェニューにのろのろと行き、サウンドチェックの時間を取り、近くの安いカフェで上着を脱いで紅茶を飲んでサラダケバブを食べ不安な気持ちで夜を待った。僕らはアドーラブルとミッドウェイ・スティルとファビュラスと呼ばれたバンドの間に、四バンド中の三番手に挟まれた。ショウはステージにいる人間より観客のほうが多いという異常事態意外に、正直目を見張るものではなかった。僕らが披露したのは成長していくレパートリーの新しい宝石の殆どだった。「パントマイム・ホース」「ザ・ドロウナーズ」「メタル・ミッキー」「ムーヴィング」、そしておそらく「トゥー・ザ・バーズ」で締めた。あの始めの時期と実際、人々が明確に僕らを観るために実際にお金を払う、もっと後になるまで、僕らは6、7曲しか演らず、主な理由は単純にそれだけしかないだけではなく、一種の尊大な声明で、技巧を超え、単調さを超え、義務を超えた、短さのゾクゾクするパンチを常に偏愛したからだ。最後の曲を終えると、僕らはイライラと怒って楽器を放り出しステージを去り、アンコールには応えず、それらをニセモノで「ショウビズ的」だと捉えた。次の週のNMEの数インチのコラムの殆どは、どうすればカメラが動くか熟知しているジャーナリストのシンガーのいる、ファビュラスに紙面を割いていた。僕らへの言及は本当に脚注だったが、好意的で底流に陰謀が含まれていた。レコード会社のオファーの波は訪れなかったが、あの晩に僕らを観てデモを聴いた一人の男に声をかけられる。彼の名前はサウル・ガルパーン。如才ない情熱的なスコッツで、ちょっとフットボール選手のアンディー・グレイに似ていて、ちょうど小さなインデペンデントの、ヌード・レコードというレーベルを立ち上げ始めていた。後に、彼は指導者と友人と話の鍵になるのだが、今は、彼は単なる疑惑に満ちた男だった。彼は僕のフラットに僕を呼んで、僕らは数かにおかしなチクチクした会話をしたのだが、その酷さに関わらず、彼は実際に曲を理解して、他の人間が見えなかったものをそれらに見ていたことが僕は分かり、彼が僕らを誘ったと言えるだろうと思う。
 僕にとって面白いのは、話のはずみがいかについていくのかを見ることだ。読み返すと、僕の若い時代がほぼ鬱血状態であったか分かり、単にそれが僕の全てであったという理由から、僕のちっぽけなおかしな世界の顕微鏡的詳細に立ち向かう必要に迫られた。子供が持つ美しい好奇心は、道が開けると避け難く悲しくも溶け、大人の人生に屈する。しかるに僕の若い日々は詳細なクローズ・アップの広い綴織で、僕がステージの真ん中で覚えている全ては、初期のキャリアの画期的事件の連なりで、だから、衝動的なあらすじ以上になろうとする記述の断片から移動し、それ自身から逃げようとしない物語を作るのは難しいのだ。「本当の」人生はどういうわけか見当違いになってしまう。新聞を読んだりテレビを観たりという、この重大事にバンドに関連性のないことはしなかった。それは本当に、本当に疲弊するもので、そして正直、それに近づく唯一の道なのだ。野蛮な並の中に飛び込んで先頭を切る。この時点の僕のプライベートの生活でさえ、曲を生み出す純粋な車輪のように感じ始め、奇妙な摩擦によってどんどん生じる個人的なドラマと異常な状況に僕は望んで身を置いて、どういうわけか獲物は犠牲の価値があると知っていた。それは殆ど、まるで僕の人生が他の人間のものになり出したようで、それが分かり始めると、作曲において奇妙な経験となった。ゆっくりと仮面が僕を捉え、後の何年もの時間だけが、僕がそれを矯正する静かで私的なプロセスを始めることができたのだった。だが、人の二十代の時間は魔術的な時だ。人を定義づける決まりがあり、僕にはほぼ後悔はない。