Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その100

サウルはおべっかとお世辞を言い続け、僕らは密かに彼の荒々しい情熱を好きになっていたのだろう、だから二月のある日、気がつけば僕らはランガム・ストリートの彼の事務所を訪れ、契約書にサインしていた。実際にサインしたのか定かではなく、ーおそらく僕は後になってだし、他のみんなは心配していたーけれど、僕らはようやくやり遂げ、最後に階段を転げてフィッツロヴィアの道に着地した時、僕らの未来は定められ、ロンドンは僕らの前にその腕を伸ばし、仄かな冬の日差しの中、美しくはっきりとしていた。

CBM その99

ブレ様自伝翻訳行きます! ど素人が無駄な情熱と根性のみで書いたウンコ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 ほぼ気づかれないほどに物事は動いていたから、ニュー・クロスのショーの僕らの存在によって蒔かれた慎み深い流言の種子はロンドンの音楽業界の流行仕掛け人の間に静かな漣を立てていたに違いない。惑星は一直線に並び始め、人々は囁き出し、ようやく、ようやく頭を向けられ始めた。ギアチェンジが、前まではひどく遠かった最初のゾクゾクする成功の息吹の先触れとなってほらやって来た。それにピッタリはまらないことにずっとイライラしたし、僕らを通り過ぎたり無視したりしていた人たちにようやく僕らの強さに気づかせ、完璧に僕ら独自のものを、特別なものを、無二のものをやっているという本当の感覚があった。革新の衝撃とともに、新鮮な未知のチリチリと鳴る鈴の音の。かつて人々の興味を逸らした明白な英国人気質と奇特な現実主義と手探りのだらしのないセクシュアリティーは、今や際立ったスタイルと自信をもたらし、素晴らしく道徳感に逆らい、ゾクゾクするほどエキサイティングだった。僕はずっとバンドには独自の宇宙、「スエード・ワールド」に住んで欲しくて、演者と作曲家としてのスキルが発展するとこの世界は共鳴し人々に語りかけ始め、彼らにその姿を明らかにした。そして作曲が貪欲なよろめくトーンを包摂し始めると、並行してバンドとしての僕らは自意識を捨て、歯軋りをして攻撃的に根源的になり、自分たちを扇情的に見せ、僕たちの作る音楽に計りしれない情熱を感じていた。サイモンの力強い怒れるドラムとバーナードとマットのますます抑制の効かなくなった演奏は、曲の暗い心を解放するドンドンというモーターになった。そして突如として観客の中に僕らの知らない人間が現れた。僕らを探し求める、衝撃的なことに特権に実際にお金を払ってくれた人々だ。僕の前の恐怖のD型の空間は、汗に塗れた、人型の、不思議に馴染みのない、冷たく湿った熱意と好奇心で満たされた。次第にそれは熱を帯び、この時点でおそらく本格的な「スエード・マニア」を得ていなかったにも関わらず、またしてもライドンの卓越した言葉を借用するのだが、彼らはおそらく、きっと、「愛情を込めて僕を引き裂く」、という感覚が静かにあった。僕らはカムデンのアンダーワールドで他のショウをして、次の火曜日、トッテンハム・コート・ロードの地下鉄の駅に、僕らを「歯を剥き出して獲物を探しているロック・ビースト」と表現している、インクで書かれた、メロディー・メーカーから突然現れた輝くレビューを買うために出向いた。それは素晴らしいティッピング・ポイント(少しずつの変化が急激な変化に変わる転換点)が到達したように見えた。僕らの次のショウはいまだにファルコンだったが、僕らが十二月に耐えた残酷なパントマイムからは大差があった。この時の観客の中の明白な武者震いと興奮した囁きは、モリッシーとサッグス(Suggs、グラハム・マクファーソンというシンガーソングライターのステージ名)とカースティ・マッコール(Kirsty MacColl、イギリスのいくつかのヒットを飛ばした女性シンガーソングライター)が僕らを観に来たというだけではなく、僕らがようやく人々が望む何者かになれたということでもあった。ジョン・マルヴィーの息もつかせぬ興奮しやすい批評がNMEに載った次の週はメディアに承認された最初の真実の味わいがあり、何年も味わった無関心と冷淡さへのもがきの後のそれは、とても、とても甘美だった。これを人々は欲し始め、急激に羽蟻のように塊となって群れ、美辞麗句で連ねた束の間の猶予を許されるならば、何か特別なもののように見えた。それは僕らの、僕らだけのもので、ー僕らの見窄らしい讃美歌とフラストレーションの叫びー誤りと喪失の詩と、僕らの前に見えた低俗で冷淡なイギリスへの讃歌だった。そして僕らはみっともない月並みな時代をスタイルとともに突き刺し蹴り飛ばし、魂と力がついに扉をこじ開けると、そこには十年間を定める音楽の創設が横たわっていたのだった。

CBM その98

ブレ様自伝翻訳行きます! 結構頑張って翻訳続けたけどなんら進化の見られないゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 このあたりから僕らがギアを入れて走り出すための助けを必要とし出したので、ジョンは僕らの仕事を手助けしてくれる人物を紹介した。彼の名前はチャーリー・チャールトン、暖かく、愛すべきティーズサイダー(イングランド北部Tess下流の旧独立自治体出身者)で、その時は奇妙な90年代初期のバック・トゥー・ザ・プラネット(ロンドンの無政府主義バンド)スタイルのドレッドヘアで、それは彼を漫画のアリのように見せていた。チャーリーは疲れを知らずに人を助け有能な人物で、誰もが密かに彼に父親になって欲しくて、事実、僕らも彼を信頼し頼り、後に彼をマネージャーに任命するほどで、僕らを本当の成功の最初の奔流を導き、最初の二枚のアルバムの高みへと届かせ、それを超えさせた。
 振り返れば。僕らは発生期の、ぎこちない勢いを展開させていたに違いないのだが、僕らはいまだ厳格に菓子屋の中には入れてもらえない感覚があった。そうして、1991年の冬の暮れ、驚くべきことが起こったー僕らはNMEの「オン・フォー‘92’」のイベント、急成長するバンドのショーケースに招待されたのだ。その「オン・フォー」のギグは当時はちょっとしたシステムで、NMEの影響と手が最高位で、彼らの承認はオルタナティブ界隈においての目に見える成功のまさしく重要要素だった。僕らはこれこそが僕らが待ち続けた好機だという空想に堕ちた。もっともらしい「大ブレイク」、僕らが自信を持ち始めていた曲の暴露、失業手当の列とみじめな貧困ではない何かへの逃亡の孵化になるかもしれない、と。寒寒とした一月の午後に、ニュー・クロスのザ・ヴェニューにのろのろと行き、サウンドチェックの時間を取り、近くの安いカフェで上着を脱いで紅茶を飲んでサラダケバブを食べ不安な気持ちで夜を待った。僕らはアドーラブルとミッドウェイ・スティルとファビュラスと呼ばれたバンドの間に、四バンド中の三番手に挟まれた。ショウはステージにいる人間より観客のほうが多いという異常事態意外に、正直目を見張るものではなかった。僕らが披露したのは成長していくレパートリーの新しい宝石の殆どだった。「パントマイム・ホース」「ザ・ドロウナーズ」「メタル・ミッキー」「ムーヴィング」、そしておそらく「トゥー・ザ・バーズ」で締めた。あの始めの時期と実際、人々が明確に僕らを観るために実際にお金を払う、もっと後になるまで、僕らは6、7曲しか演らず、主な理由は単純にそれだけしかないだけではなく、一種の尊大な声明で、技巧を超え、単調さを超え、義務を超えた、短さのゾクゾクするパンチを常に偏愛したからだ。最後の曲を終えると、僕らはイライラと怒って楽器を放り出しステージを去り、アンコールには応えず、それらをニセモノで「ショウビズ的」だと捉えた。次の週のNMEの数インチのコラムの殆どは、どうすればカメラが動くか熟知しているジャーナリストのシンガーのいる、ファビュラスに紙面を割いていた。僕らへの言及は本当に脚注だったが、好意的で底流に陰謀が含まれていた。レコード会社のオファーの波は訪れなかったが、あの晩に僕らを観てデモを聴いた一人の男に声をかけられる。彼の名前はサウル・ガルパーン。如才ない情熱的なスコッツで、ちょっとフットボール選手のアンディー・グレイに似ていて、ちょうど小さなインデペンデントの、ヌード・レコードというレーベルを立ち上げ始めていた。後に、彼は指導者と友人と話の鍵になるのだが、今は、彼は単なる疑惑に満ちた男だった。彼は僕のフラットに僕を呼んで、僕らは数かにおかしなチクチクした会話をしたのだが、その酷さに関わらず、彼は実際に曲を理解して、他の人間が見えなかったものをそれらに見ていたことが僕は分かり、彼が僕らを誘ったと言えるだろうと思う。
 僕にとって面白いのは、話のはずみがいかについていくのかを見ることだ。読み返すと、僕の若い時代がほぼ鬱血状態であったか分かり、単にそれが僕の全てであったという理由から、僕のちっぽけなおかしな世界の顕微鏡的詳細に立ち向かう必要に迫られた。子供が持つ美しい好奇心は、道が開けると避け難く悲しくも溶け、大人の人生に屈する。しかるに僕の若い日々は詳細なクローズ・アップの広い綴織で、僕がステージの真ん中で覚えている全ては、初期のキャリアの画期的事件の連なりで、だから、衝動的なあらすじ以上になろうとする記述の断片から移動し、それ自身から逃げようとしない物語を作るのは難しいのだ。「本当の」人生はどういうわけか見当違いになってしまう。新聞を読んだりテレビを観たりという、この重大事にバンドに関連性のないことはしなかった。それは本当に、本当に疲弊するもので、そして正直、それに近づく唯一の道なのだ。野蛮な並の中に飛び込んで先頭を切る。この時点の僕のプライベートの生活でさえ、曲を生み出す純粋な車輪のように感じ始め、奇妙な摩擦によってどんどん生じる個人的なドラマと異常な状況に僕は望んで身を置いて、どういうわけか獲物は犠牲の価値があると知っていた。それは殆ど、まるで僕の人生が他の人間のものになり出したようで、それが分かり始めると、作曲において奇妙な経験となった。ゆっくりと仮面が僕を捉え、後の何年もの時間だけが、僕がそれを矯正する静かで私的なプロセスを始めることができたのだった。だが、人の二十代の時間は魔術的な時だ。人を定義づける決まりがあり、僕にはほぼ後悔はない。

CBM その97

ブレ様自伝翻訳行きます! 寒さでただでさえ動かない脳みそが動いていない人間が翻訳したクソ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 金で幸せを買えないかもしれないが、けれどそれの欠乏は人生をクソ惨めにし、ロンドンは貧乏だったら一層残酷だった。ジョンメイヤー政権の最低生活水準の年金暮らしの赤貧は耐え難くなり、職を探す時期だと感じた。まず初めに、傲慢無礼な不採用が徐々に僕の考えを下げるまで、経験も資格もないのに高い地位を探し、最終的に小売店の仕事を探すようになった。僕は常に過大評価か過小評価されていたような感じで、六ヶ月間継続的に応募して、ボンドストリートの文具店の面接に誘われたのだった。またしても不採用となり、最終的に赤貧状態を受け入れさせられ、仕事を諦めたが、作曲やリハーサルをしていない時の終わりのない空虚な吹き溜まりの時を満たすために何かする必要があった。どこからか誰かからか、ハイゲートにラウダーデール・ハウスというコミュニティー・センターがあると聞き、アーキウェイ・ロードの先から少し離れた、ウォータールー公園の片隅に身を置いた。ある冬の日にそこまで行進して、僕が何かボランティアの仕事をすることに協力するよう彼らが承服するまでグチグチネチネチ説得した。僕はシフトにつき、物を持ち上げ紅茶を淹れ受付に居座り、文学の講習会とヨガのクラスとドロップ・イン・センター(立ち寄ってくつろいだり相談したりできる公共の施設)に人びとを導いた。共同体の感覚と暖かさは心地良く、ハイゲート、残りのロンドンから奇妙に切り離された地域に愛情を感じ、僕の古い総覧から適切に追放された。引きこもり、軽くエキセントリックでほぼ時代錯誤な、困窮と抑圧と粉々の夜に裏切られた若い母親と孤独な妻のマスカラの縞がついた顔に取り掛かった後の、ドッグ・マン・スターの僕の受け持ち部分を書くために1994年に暫く戻った場所だった。彼女らの苦境はなぜか僕に共鳴し、ある日の昼休憩にチーズとピクルスのサンドイッチを食べて、ウォータールー公園のベンチでノートを取り出し、「スリーピング・ピルズ(Sleeping Pills)」になる歌詞を書いた。この曲は、しばしばそう解釈された、自殺へのメロドラマ的な抗議では決してない。時間を無為に過ごし柔らかに麻痺して一日をやり過ごすためにヴァリウムを飲む主婦への讃美歌に過ぎなかった。僕が時計の針を動かし何か起こることを待っている間、僕の前に度々伸ばされた空虚な終わりのない圧倒的な僕自身の時の、僕の強い共感の表れだった。実際、客観性の移動から作曲するのが僕に作用するただ一つの理由は、いつも強い感情移入をしていたからだと思う。僕自身の人生の断片と感情を満載した小さな肖像画だったから、それは決して明快な性格描写のように簡潔で不洗練ではなかった。「自分が知っていることについて書きなさい」と言われるように、僕はずっとそうした。バーナードが嵐のようなクレッシェンドを作り上げ吹き鳴らし、彼が書いた優美な引き潮のようなギターの断片を演奏したとき、僕の人間性が終着点を発見し、次のアルバムの鍵となる二曲のテーマへと戻るのだった。「スティル・ライフ(Still Life)」と「ザ・トゥー・オブ・アス(The Two Of Us)」だ。
 僕らの成長の繭から追放され、僕らはまたギグの匂いを嗅ぎ始めた。この時点で、優しく物腰柔らかな、今は悲しくも他界した、その漫画の子犬のような目は僕にいつもドルーピーか若い頃のトム・ハルスを思い起こさせる、ジョン・エディマンにアプローチされていた。彼はファイアー・レコードと仕事をしていて、界隈の最底辺にいた僕らに出会い、協力を申し出た。彼の影響力の低いビジネスの地位でさえ、コネと前進する可能性のほのかな光とぼんやりとした牽引の約束への接触に感じられ、彼のマネージメンとを受け入れることにした。マリブビーチの豪邸とマンハッタンの摩天楼に住むメジャー・レーベルの重要人物との会合への暗い煙に満ちたトランジットの裏の、酩酊してガチャガチャ言う旅から僕らを引き離して導くことを、彼は運命付けられていた。差し当たり僕らはしっかりと現実的だったけれど、鋼鉄のような野心と育ちゆく発火性の曲を保有し、そしていまだ成功の囁きにさえ近づかれていなかった。古い、お馴染みの、憂鬱な基準を満たさない螺旋を踏み潰した二回のショウの後、ジョンは僕らにカムデン・ファルコンの、90年代初頭のロンドンのインディー界隈の支えのパブの裏の隙間風の吹く暗い部屋のギグを取り付けた。低レベルな新人バンドと不可解なジャーナリストをだらしなく探している。僕らはそこで二、三回ジャスティーンとともに、その時点での僕のマイナーな英雄で、彼の冷たい、一歩引いた、性的な心象とジャック・ブレルのような淫らさへの賛歌で僕を魅了したモーマスMomus)のシンガーを含む薄い観客にプレイしたことがあった。ジャスティーンはパーティーで彼に会い、彼が撮影したギグのビデオが僕らを下がらせほぼ彼女の胸のクローズアップだけだったので、彼は彼女に夢中になっていたに違いない。とにかく、ジョンが企画したそのギグは僕らの「クリスマスショー」として宣伝された。この強制された偽りの陽気さの苦い皮肉はすぐに明らかになった。観客はすっかり二人で構成されていた。ジョンと彼の彼女のフィオナだ。凍りつくような一二月の夜で、混雑と体温の欠落は死ぬような冷たさに帰結した。僕の記憶がとどめているのは、僕らが寒々しく無意味に演奏している間、ステージの裏で彼が壁掛け式の暖房にあたる時をバンドのメンバーそれぞれが耐えていたことだ。

CBM その96

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 違った風に考えた人をがっかりさせて申し訳ないのだけれど、僕は、僕らのどんな「同時代」の他のバンドに特に親しい感情を持ったことはない。人々がその一〇年間を振り返る時、陽気な小さな派閥のカムデンハイストリートを気持ちよくスキップしている僕らを想像すると予測するが、十年間の後半を定義づける醜いビール臭い漫画に僕らは決して与しなかった。そしてそのことを神に感謝する。僕らの不在はどんなエリート層からの不在だと僕は見る。素晴らしい、物事からの解放として。けれど初期の状態において、僕らが自分自身への在り方の感覚について感じていたのは、僕らは完全に孤独だという気持ちだった。ナタとヘルメット帽で森の中を道を切り開きながら探索するような。僕らが言葉と音楽とスタイルの中に発展させていた「英国人気質」の感覚は、もうちょっとでこけそうだと感じるぞくぞくする何かで、そのように勇敢で未熟な感覚で、美しく足を踏み外した。明らかに、僕らには過去からの行いの前進のインクの裏抜けで、だが1991年には、それが後に彼らのものだったと主張しようとした他の全てのバンドが未だ惨めなシューゲイザーとバギーの混沌に囚われていた頃、それは全く僕らのもので、僕らだけだったと感じた。しかし、僕が作曲でやろうとしていたことと、そいつらが後にやろうとしたことの間には巨大な違いがあった。僕は決して英国人気質を祝福しなかったー記録したのだ。重要な点は僕が自分の周りに見た世界と英国にまさに起こった世界の反射だ。陽気な好戦的愛国主義者とは全く関係ない低俗な失敗した世界で、率直なお高くとまった解釈がついてくる。多くの曲の歌詞が単なる、僕が「ロックの語り(rock speak)」と呼ぶ、ジミ・ヘンドリックスとジム・モリソンとその他から借用された決まり文句、意味のないくどくどと語られる、「誰かさんの魂を盛り上げる」等々であることにいつも不満を抱いていた。僕の世界の僕のアクセントの僕自身の声と歌を使いたくて、それは壊れた単調なだらしのない奇妙なものだったけれども、恩寵と詩の感覚に結びつけようと努めた。その一〇年間を振り返ると、最終的に僕らを裏切る1990年と1991年の汚いイーストロンドンのリハーサルルームで僕らが生み出したものは、財布から金をくすねようとしているのを母親に見つかった子供のように、僕らは決して再び同じようには見られないのだった。
 この時における他の重要なことは、サイモンがカミングアウトしたことだ。彼が静かにそれを公に口にしたのは僕らがリハーサルの後に飲んでいる間で、痛ましいことに最初僕は彼の言っていることが聞き取れず、その晩、後になってアランが僕に指摘しなければならなかった。僕はいつだってサイモンの静かな威厳とシャイさと、彼をより立派に見せる知らせを僕らがどう受け取るのかという思慮に憧れてきた。それを言われるや否や、僕は彼をよんで、何に対してもほんの僅かな違いもないと彼を安心させた。どうしてか? けれど、リベラルな九十年代においてさえ、ホモフォビアの醜い種子はいまだ実り、きっと歌詞が彼の中に流れ込み始めていたという事実にも関わらず、彼は心配だったのだろう、そしてきっと、辺境と虐待の記録をしている一員であると希望を持って感じ始めていたのだろう。おそらくこれはそれら受容の縁に発言権を与えようとする僕の試みで、ある意味で僕が自分の立場を表明することだった。包括的なアプローチとして意図されたそれが後に「偽物」「日和見主義」と見られたことは悲しいことだが、僕が学んだことは、曖昧な考えをとることがほぼ不可能な問題があるということだ。

CBM その95

ブレ様自伝翻訳行きます! 基礎的学力を過去に置き去りにしてきたパープリンが訳したゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 ジャスティーンが去ると、バンドはもっと良くなった。辛辣や残酷に聞こえるようにはしないが、突然そこには以前にはなかった明快さができ、まったくペースの早い彼女のラフなリズムギターは音をガチャガチャと分かりにくくしていたのだ。これがなくなり、バーナードは、バンドがライブを発展させる、獰猛で好戦的なエッジが従うより重々しいスタイルの中に稠密で堅固にプレイするように押しつけられた。彼女が最初に認めるのは彼女の退場が僕らの、勿論、彼女の後の成功に多大なる役割を演じたことだと思う。個人的に、彼女の不在がある意味で、以前にはできなかった、僕に彼女を諦めさせることができ、そうして大学を大学し、焼き尽くすようにぼんやりと現れる偏在は記憶を薄れさせ、痛ましい、そう、だが彼女の存在による混乱と躊躇と緊張はなかった。いまや僕とバーナードはベストな曲を書くのに自由だったー本能的にー次の二年は僕らのそれまでのベスト曲を育んだ。バンドにある感覚は、僕らの仕事を続けるにつれ、一つの調和以上になり、かつてないほどにある意味接着剤で固めたように僕ら四人の絆は堅くなった。五年目のバンドのように僕らは小さなギャングになった。凶暴なまでに忠実で、お互いを保護し、お互いの服を借り、お互いの言葉の引用で終えた。僕らはそれからのギグを全てキャンセルし、存在しない僕らの観客から身を引き、何ヶ月も曲作りとリハーサルに費やした。ハックニーロードの穴に隠れ、紫煙に花飾られ、数えきれない数の紅茶をアンプと窓の出っ張りの上で冷まし、僕らはゆっくりと公衆が最初にスエードだと知覚するバンドとなり、繭から出て日の光に瞬きした。ある晩僕らはプレマイセズにリハーサルを予約し、マットとサイモンは調子が悪くて出られなかったが、バーナードと僕は予約をキャンセルできなかったので、何か作曲しようとやってきたのだった。彼は蜘蛛のようなアルペジオの一片をジャムし、僕はただ歌い始め、魔術のように、ほぼ、ドアーズの映画のワンシーンの、「ハートに火をつけて(Light My Fire)」のようにその夜の終わりには「マイ・インセイシャブル・ワン」を書いていた。その時に僕が作曲していた全てのように、失恋によって大いに色づけられていたが、この時はジャスティーンの視点、第三者によって自分自身のことについて書き、彼女が自分の選択を後悔する状況を物語化し、歌詞の中の「彼」は、本当に僕だった。僕はこの客観性の移行を作曲家として本当にゾクゾクするものだと思い、広大な眺望は突如として開け、初期の他の曲を探索し始め、主婦とゲイと寂しい親父の目を通して世界を見た。ディランは僕のお気に入りの「ノース・カントリー・ブルース」でそれをやっていて、そこに19世紀の炭鉱労働者の妻のペルソナが彼の中に宿っていて、僕はそれを魅惑的で刺激的な仕掛けだと思った。悲しいことに、一年かそこらの後に、僕らが悪名と成功に覆われた時、それをソーシャルツーリズム(さまざまな事情により旅行が難しい人間に参加させる旅行)だと見做すと決めた人がいた。現実の皮肉なソーシャルツーリズムのレベルを与えられ、10年間、お高く止まった中産階級の男たちが労働者階級の文化とアクセントを真似ることで金を稼ぎ、その皮肉はこの上なく素晴らしいだろう。けれど歌は流れ続けた。今やバーナードはより主要な部分で曲を満たし始める唯一のギタリストだった。彼がかつて僕に語ったのが、ラジオで聞いたシェールの「ザ・シュープシュープ・ソング(The Shoop Shoop Song)」にリズムに着想を得て、「メタル・ミッキー」のゾクゾクする原始的な弾むグルーヴを思いついたということだった。僕は本当にこの曲の僕の役割を憶えていないーきっとリハーサルルームで一緒にやり、僕がメロディーを生み出し、歌詞のラフな素描をし、バンドが脱穀して、キーキーというフィードバックと雑音の毛布から篩にかけた。僕はソニーの安いボイスレコーダーを買い、いつでもそれにアイディアを囁いた。僕は慌ただしい道路に、僕のディクタフォンにぶつぶつと呟いて声を震わせて歌いながら盲目に突っ込んで、怒れるクラクションとブレーキの金切り声にも気がつかなかったので、マットはかつて僕を「ウェストロンドン最悪の交通障害」と呼んだ。「メタル・ミッキー」の歌詞には、正直な社会からの見捨てられがあったが、音楽の喜びと十代の急行に合致した。僕が正直なら、それらは僕がいつでも気にしていた唯一の同時代のバンド、デイジー・チェインソー(Daisy Chainsaw)、ゾクゾクするだらしのない彼ら自身の性的魅力のある、への幾分のオマージュだった。曲は下劣な見窄らしい九十年代ロンドンのインディー界隈に見事に座していた。プラスチックのビールカップ、憂鬱なパブのギグ、ひそかにシャッフルされた失敗の。僕の失業手当を使ってタバコを、キャットフードを、ポートベロマーケットから米と野菜を買って、何か残っていたらオックスファムかスーライダーのチャリティーショップに行って古着を買った。ライドン氏がいみじくも仰った「重要でないからこそ服は重要だ」のように、2・3ポンドで手に入る古い七十年代のシャツとささやかな革のボンバージャケットを好んだ。それが安価だからという事実と同様に、誰もそれ以上着ない種類の服だということが僕に主張し、浸透と便宜の過程によってすぐに、バンドの残りも僕の服を借りたり、似たような服を着始めた。やっと成功を手に入れ、音楽雑誌を超えてファッション雑誌にも存在が貫かれ始めた頃、その業界の人間は僕らがそうしようと決めた「見た目」を様式的だと考え、悪趣味で嫌味なコメントをよこした。僕はそれを大いに喜びながら、ただ単に僕らがとても、とても貧乏だったからだと笑って彼らに語った。後にマットが「僕ら皆生計を立てるためにトイレ掃除をしていた」と言うことによって粋に要約したのだった。

CBM その94

ブレ様自伝の翻訳行きます! 全く音楽の知識もない人間がなんとなくで訳しているゴミ翻訳だということをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 僕は「トゥー・ザ・バーズ」の輪を成し疾走する、ほぼフィリップ・グラスのようなギターとベースのイントロ、そして上下して堆いコーダとなる様を愛している。それは一種の「アイ・ウィル・サヴァイブ(I Will Survive)(訳者註・グロリア・ゲイナーの曲)」のモチーフの喪失と孤独の克服の歌で、破局の背景が過剰な装置となっていて、僕は、鳩だけが聴衆となってバルコニーにいる捨てられた吟遊詩人としてメロドラマ的に配役されている。「バーズ(birds)」という言葉の口語的な言外の意味は僕に起こった喪失ではなく、けれど、僕は意味が投げかける陰を弄ぶことがずっと大好きだった。僕にとって歌の大量の生き血は、ガラスの下の標本、塵埃まみれの標本箱の蝶のようにただ死んでいるのではなしに、主観的な解釈についてだ。座ってこれらの曲の記憶を共有することの矛盾について僕は気づいているけれど、僕自身の解釈も絶対的ではなく、単なる出発点に過ぎない。これは僕の初期の非難に矛盾して聞こえるかもしれないが、それは正しい精神の中に意図され、僕の気に入りのことの一つは他人の読み取りを聞くことだ。それがゴシップめいていたり絶対主義者でない限り、それは愉快で創造的で音楽に息吹を与え、それを否定する充分な資格が僕にあるとは決して感じない。
 奇妙なことは、僕らがこれらの新曲を書いている一方で、ジャスティーンはまだバンドにいて僕らとそれをパフォーマンスをしていたことだった。それを一種の捻くれた勝利とするべきだったが、そうではなかった。全ての状況は急激に耐え切れない様相を帯び、増幅する興奮と明白な緊張感の奇妙に混合し、惨めさに気付きながら、創造性のスリルの均衡を取り戻そうとし、ごちゃまぜになった陳腐さはいまだ作用していた。僕らがいまだ一握りの無関心な人間の前での憂鬱なパブのギグを彼女としていた六ヶ月の期間があった。違いは、反応がそうでなくてさえも、素材が今や火がつきそうになっていたことだった。しばしば観客より多い人数がステージにいた。ニュー・クロスのアマーシャム・アームズの特別なショウは一人の人間の前で披露された。サイモンの従兄弟のポールだ。振り返ればその時点でのセットが鼻にかかる「ザ・ドラウナーズ」「トゥー・ザ・バーズ」「ヒーズ・デッド」「ムービング」だったのは滑稽に見える。どんなA&Rの人間も僕らに訪れなかったし、僕らがクソで見逃されていた時に僕らを観にこなかった人たちは、きっと新しいライド(Ride)やチャプターハウス(Chapterhouse)を探していて、僕らの急上昇する劇的な尖ったエネルギーが流行りと心地よく坐していることが分からなかったのだ。僕らはロッキング・ホースというイースト・ロンドンの安いスタジオでデモを作った。「ザ・ドラウナーズ」と「ヒーズ・デッド」と「ムービング」と「トゥー・ザ・バーズ」の簡素でエキサイティングなバージョンだった。一年かそこらの後に、同じ音楽会社が同じ曲に花で飾られた豪奢な喝采と共に反応するだろうが、その時は同様に無関心に肩をすくめ、新しいスロウダイブ(Slowdive)へと足を向けた。僕らがフラストレーションでイライラしていたこの時でさえ、僕らの自信は火打ち石のように硬い決心によって固められ、いつの日か、いつの日かその瞬間が来ることを知りながら、歯軋りしていた。
 どんどん叩かれるジャスティーンのリズムギターと共に新しい曲のクラッチを演奏するのは急激に間違った方向に行った。彼女の前の男がフロントを務めるバンドにいることに関連づいた明らかな緊張感から離れて、彼女もどんどん意見を持つようになり、僕らは芸術的にどんな方向に向かっているのかということへの疑問でムズムズし、彼女と残りの人間と本当の摩擦と分裂を作り上げた。彼女はもっとパンチの効いたパンクな音を好んで、「トゥー・ザ・バーズ」と「パントマイム・ホース」と他の全てのより壮大で勇壮な素材を嫌うようになり、幾分バンドに違う意見を持っただけではなく、僕が思うに、彼女がそれらに苦く辛辣な彼女への一突きがあると感じとったからだろう。そして緊張感は高まった。それはある晩のリハーサルの後の激しいやり取りで頂点に達し、彼女はその曲が好きではないと僕に言い、僕は「パントマイム・ホース」と「トゥー・ザ・バーズ」こそ僕が書きたかった曲だし、それが好きじゃないなら君は間違ったバンドにいると返した。二、三日後、別な空虚な愛されないショウが終わりーこの時はマレット・ストリートのUCLだったー、彼女はやっともう十分だと決め、彼女のリッケンバッカールノーの後部に置き、最終的に夜に消えて行った。新しい人生へと発進し、何年もの僕の人生から去って。