Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その95

ブレ様自伝翻訳行きます! 基礎的学力を過去に置き去りにしてきたパープリンが訳したゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 ジャスティーンが去ると、バンドはもっと良くなった。辛辣や残酷に聞こえるようにはしないが、突然そこには以前にはなかった明快さができ、まったくペースの早い彼女のラフなリズムギターは音をガチャガチャと分かりにくくしていたのだ。これがなくなり、バーナードは、バンドがライブを発展させる、獰猛で好戦的なエッジが従うより重々しいスタイルの中に稠密で堅固にプレイするように押しつけられた。彼女が最初に認めるのは彼女の退場が僕らの、勿論、彼女の後の成功に多大なる役割を演じたことだと思う。個人的に、彼女の不在がある意味で、以前にはできなかった、僕に彼女を諦めさせることができ、そうして大学を大学し、焼き尽くすようにぼんやりと現れる偏在は記憶を薄れさせ、痛ましい、そう、だが彼女の存在による混乱と躊躇と緊張はなかった。いまや僕とバーナードはベストな曲を書くのに自由だったー本能的にー次の二年は僕らのそれまでのベスト曲を育んだ。バンドにある感覚は、僕らの仕事を続けるにつれ、一つの調和以上になり、かつてないほどにある意味接着剤で固めたように僕ら四人の絆は堅くなった。五年目のバンドのように僕らは小さなギャングになった。凶暴なまでに忠実で、お互いを保護し、お互いの服を借り、お互いの言葉の引用で終えた。僕らはそれからのギグを全てキャンセルし、存在しない僕らの観客から身を引き、何ヶ月も曲作りとリハーサルに費やした。ハックニーロードの穴に隠れ、紫煙に花飾られ、数えきれない数の紅茶をアンプと窓の出っ張りの上で冷まし、僕らはゆっくりと公衆が最初にスエードだと知覚するバンドとなり、繭から出て日の光に瞬きした。ある晩僕らはプレマイセズにリハーサルを予約し、マットとサイモンは調子が悪くて出られなかったが、バーナードと僕は予約をキャンセルできなかったので、何か作曲しようとやってきたのだった。彼は蜘蛛のようなアルペジオの一片をジャムし、僕はただ歌い始め、魔術のように、ほぼ、ドアーズの映画のワンシーンの、「ハートに火をつけて(Light My Fire)」のようにその夜の終わりには「マイ・インセイシャブル・ワン」を書いていた。その時に僕が作曲していた全てのように、失恋によって大いに色づけられていたが、この時はジャスティーンの視点、第三者によって自分自身のことについて書き、彼女が自分の選択を後悔する状況を物語化し、歌詞の中の「彼」は、本当に僕だった。僕はこの客観性の移行を作曲家として本当にゾクゾクするものだと思い、広大な眺望は突如として開け、初期の他の曲を探索し始め、主婦とゲイと寂しい親父の目を通して世界を見た。ディランは僕のお気に入りの「ノース・カントリー・ブルース」でそれをやっていて、そこに19世紀の炭鉱労働者の妻のペルソナが彼の中に宿っていて、僕はそれを魅惑的で刺激的な仕掛けだと思った。悲しいことに、一年かそこらの後に、僕らが悪名と成功に覆われた時、それをソーシャルツーリズム(さまざまな事情により旅行が難しい人間に参加させる旅行)だと見做すと決めた人がいた。現実の皮肉なソーシャルツーリズムのレベルを与えられ、10年間、お高く止まった中産階級の男たちが労働者階級の文化とアクセントを真似ることで金を稼ぎ、その皮肉はこの上なく素晴らしいだろう。けれど歌は流れ続けた。今やバーナードはより主要な部分で曲を満たし始める唯一のギタリストだった。彼がかつて僕に語ったのが、ラジオで聞いたシェールの「ザ・シュープシュープ・ソング(The Shoop Shoop Song)」にリズムに着想を得て、「メタル・ミッキー」のゾクゾクする原始的な弾むグルーヴを思いついたということだった。僕は本当にこの曲の僕の役割を憶えていないーきっとリハーサルルームで一緒にやり、僕がメロディーを生み出し、歌詞のラフな素描をし、バンドが脱穀して、キーキーというフィードバックと雑音の毛布から篩にかけた。僕はソニーの安いボイスレコーダーを買い、いつでもそれにアイディアを囁いた。僕は慌ただしい道路に、僕のディクタフォンにぶつぶつと呟いて声を震わせて歌いながら盲目に突っ込んで、怒れるクラクションとブレーキの金切り声にも気がつかなかったので、マットはかつて僕を「ウェストロンドン最悪の交通障害」と呼んだ。「メタル・ミッキー」の歌詞には、正直な社会からの見捨てられがあったが、音楽の喜びと十代の急行に合致した。僕が正直なら、それらは僕がいつでも気にしていた唯一の同時代のバンド、デイジー・チェインソー(Daisy Chainsaw)、ゾクゾクするだらしのない彼ら自身の性的魅力のある、への幾分のオマージュだった。曲は下劣な見窄らしい九十年代ロンドンのインディー界隈に見事に座していた。プラスチックのビールカップ、憂鬱なパブのギグ、ひそかにシャッフルされた失敗の。僕の失業手当を使ってタバコを、キャットフードを、ポートベロマーケットから米と野菜を買って、何か残っていたらオックスファムかスーライダーのチャリティーショップに行って古着を買った。ライドン氏がいみじくも仰った「重要でないからこそ服は重要だ」のように、2・3ポンドで手に入る古い七十年代のシャツとささやかな革のボンバージャケットを好んだ。それが安価だからという事実と同様に、誰もそれ以上着ない種類の服だということが僕に主張し、浸透と便宜の過程によってすぐに、バンドの残りも僕の服を借りたり、似たような服を着始めた。やっと成功を手に入れ、音楽雑誌を超えてファッション雑誌にも存在が貫かれ始めた頃、その業界の人間は僕らがそうしようと決めた「見た目」を様式的だと考え、悪趣味で嫌味なコメントをよこした。僕はそれを大いに喜びながら、ただ単に僕らがとても、とても貧乏だったからだと笑って彼らに語った。後にマットが「僕ら皆生計を立てるためにトイレ掃除をしていた」と言うことによって粋に要約したのだった。