Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その19

ブレ様自伝翻訳行きます!相変わらず直訳ですが。ど素人が訳したということをご了承の上お読みください。原典読まれて、明らかにここが違う、という箇所がありましたら、ご指摘お願いします。

 

 しかしながら、ブランディーヌは僕より俯瞰的だった。70年代と80年代の初めの頃、僕たちの両親がまだ若く、若さの特権として、よく家でパーティーを開いた。それは僕とブランディーヌには魔法のようにうっとりする経験で、僕らは二階に追放され、せわしなさとお喋りと、甲高い声とガラスのカチンという音を聞き、不道徳さとアルコールの蒸気とタバコの煙を吸い込み、よく階段の手すりの近くを徘徊していた。そこが僕らが大人の不思議で魅惑的な世界の縁で高みの見物をする場所だった。次の日の朝は僕らは早起きし、両親が寝て酔い覚ましをしている間、爪先立ちで階段を降り、きわめて用心深くごみの中を歩き、謎を繋ぎ合わせて探偵のように解決の糸口を探った。僕はそれからいつも、カーテンの後ろに捨てられたストッキングを見つけ、どうしてブランディーヌはそれを面白いと思うのかを思い出すのだった。勿論、初心な子供心にはその裏にある意味は分からなかった。探偵仕事が終わったら、僕らは急いで、小さな居間とキッチンに乱雑に置かれたタンブラーとコップに残った酒をごく少し呑んだ。アルコールの汚れた指先に打ちのめされ、リキュールの混ぜ物と違法行為をしているという背徳感にくらくらしながら、酩酊をぞくぞくと楽しんだ。父がどれだけ飲んだかは定かではないが、けれど、父はほぼ完ぺきな絶対禁酒主義者だった。父の子供時代が僕の祖母のアルコール中毒による痛ましい最後を処理することに大いに色づけられていたからだと思う。クリスマスに呑むシェリー酒の奇妙な小瓶以外、僕は父が飲酒するのを見た事はないと思う。父が執着したのは紅茶で、それが僕が父から受け継いだ物の一つだった。父はいつまでも蒸気を上げるヤカンの近くをウロウロして、短い褪色した銀のスプーンで茶葉を掬ってポットに入れていた。長い夜の仕事の後、朝遅くまで寝て、やっと起きると、寝室の床をドンと乱暴に棒で突き、それを母がさっと持ってこれる、紅茶を彼に持ってくる合図にしていた。今日では、そのしきたりはひどく女性差別的で野蛮なように聞こえるけれど、両親が交わしたのは古臭い、恐らくは不文律の暗黙の了解で、婚姻とは分業だというのははっきりと定義されているものだった。父が金を稼ぎ、それ以外のかなりのことを母がこなすことを期待されていた。僕は一度も父が掃除洗濯をしたことを覚えていない。料理人としての経験を積んでいるにも関わらず、料理の手伝いをしたことがないのも、だ。その代わり、父はテーブルと箒のそばに座り、もし料理が代わり映えのない「肉とふたつの野菜(男性器の俗語)」から外れたら、料理を侮辱した。おかしなことに、父はよくボロネーゼでさえ、「外国のクソ」と言った。料理を食べ終え、それをテーブルの中央にやり、わざとらしくしかめ面をし、尊大で奇妙に手をひらひらとさせて、それが皿をしまえという母への合図だった。家事のヒエラルキーは彼には厳密に定義されていた。彼はイギリス男で、ここは彼の城、結婚したことで、妻でさえだんだんと奴隷と見做し始めたのだった。この全く古臭い均衡状態は暫くは機能しているように見えたが、麻痺した子供時代の繭から姉と後の僕がでた時、彼の権力に疑問を持ち、避け難い、終わりのない10代の争いとなって、彼とぶつかったのだった。