Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その20

ブレ様自伝翻訳行きます!相変わらず直訳です!それをご了承の上お読みください。原典読まれて、明らかにおかしい箇所がありましたら、ご指摘お願いします。

 

僕は鼻垂れの人を見下した、かすかに感傷的な、サラダのクリームとミルクティーと安い肉で育った少年だった。写真を撮る時はいつもしかめ面をしていた。顔も伏せていたが、実際に虚無的でも憂鬱でもなく、だが間違いなく暗く、いつも少し混乱していた。母は一度、意図せずに面白い僕の肖像画を描いた。まだ僕はそれを持っている。ブルーのトラックスーツを着て、陰鬱に平原に立ち、セインズベリーのソルト&ビネガー味のポットチップスの袋を手にぶら下げ、二重顎で顔がパンパンで、陰気な表情を浮かべてどうでも良さそうに中空を見つめている僕が描かれていた。ポテトチップスは僕が子供の時に本当に欲した数少ない食べ物の一つだった。僕がはっきりと覚えている、時折自分の頭の中でした空想は、大人になって十分なお金を持ったら、小さなポテトチップスの山を買うことだった。それはいつか、僕が10歳の自分自身と語り合うため、本当にやらなければならないことだろう。他の多くの子供のように僕もお菓子が好きだった。少し大きくなった頃、はろるずと呼ばれる村の古臭い店に、20ペニーをポケットに入れて定期的に通った。4分の1ポウンドのレインボー・ドロップスか、咳止め飴を買っていた。メンソール味の煮詰められた砂糖のベタベタした螺旋は大きなガラス瓶の中に入れられ、掬い出されて重さを量られて、粗末な小さくて白い紙袋に入れられた。ハロルド自身は不恰好な不平不満をぶつぶつと言っているガーゴイルのようで、いつも微かに、どんな子供も大胆にも彼にお金を渡したがることに苛ついていた。店の全体が古めかしく、陰鬱に凪いで、どういうわけか図らずも前世紀に入り込んでしまったようだった。砂糖は僕の歯を悪くして、勿論、それが意味したのは、ヘイワーズ・ヒースの歯医者に引き摺って連れて行かれる、どうやら僕の子供時代の長期間を過ごすことだった。70年代の子供にとって、国民健康保険でかかれる歯医者に行く経験というのは、最近の治療がどうにか耐えられるもになる前、本当に恐ろしく、冷たく鋭く、殆ど吐き気がして、僕は恐怖した。僕は巨大な清掃された青っぽい緑の椅子に、口を固定されて開けられて、恐怖で縮こまって固まって横たわっていた。歯医者が刺して彫って突いて穴を開けて、僕は母の手を強く握りしめて涙を流して酷い痛みに耐えようとした。その試練の後、僕は大抵よろめいて、口を血まみれにし、ヘイワーズの道路、僕の唯一の少しばかり金のある縁戚の家への途中で吐いていた。僕の父のエバのおばさん、僕の大叔母で、公園の近くの綺麗で古風な赤煉瓦づくりのビクトリア風の家に住み、そこは春の花の匂いがした。土曜日の朝、僕の家族と従兄弟の群れは、1・2枚の硬貨をその手に貰うために義務的に彼女の家を訪れていた。夜に時々、彼女家の居間にたむろして、プラスチックに覆われた家具に座り、驚きをもって彼女のカラーテレビを見つめていた。僕らがどうにかテレビを持てたのは70年代半ばで、それも小さな白黒テレビだった。彼女が結婚したのはかなり成功した実業家で、ジムといって、不吉な早春の一撫でに行方不明になって、子供のいないまま彼女を置き去りにし、彼女は女主人としての地位は引き継いだのだった。彼女の兄弟、僕の大叔父のハリー、優しいけれど不思議な人で、ピカピカの禿頭と耳の上に一房髪の毛があって、コアラのような見た目をしていて、10ペンスはフローリン銀貨で、と言っている人だった。ピムリコのモーテル住まいで、クラリッジェスホテルで使用人として働いていた。彼はよく週末を大叔母と過ごして、僕たちに東欧の皇女と都市の贅沢さについて話して喜ばせてくれた。彼は決定的な独身男性で、彼女についての話は全くなかった。彼はおそらく同性愛者だったのだろうが、生まれたのがまだ公的な受け入れが不可能な世代だった。何年か後、エヴァおばさんは精神異常に苦しみ始めた。彼女の近所の家への監視がゆっくりとしたスピードで彼女自身、もしくは僕の写真の近くにクッキーを置いておく習慣になり始め、僕がそれを食べていないと父に訴え、最初はシュールで滑稽に見えたが、状態が悲惨な地平に落ちると、より暗い淵の様相を帯びた。