Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その25

ブレ様自伝翻訳行きます!相変わらずNO推敲!それでもよければお読みください。原典読まれた方で、明らかにおかしい箇所ありましたら、ご指摘お願いします。

 

 より暗い時期は、僕が大きな地元の統合中等学校のオートホールに突然落とされた時にやっと訪れたのだった。不気味な、寒々とした1930年代の建物が、より広く地域を包み込み、事業を提供されていた。それは11歳の正直な僕自身には、途轍もなく大きく威圧的に見え、事実、甲高い悲鳴の凄まじい大きさ、灰色のズボンの悪ガキどもは恐ろしかった。1クラス毎に大体三十五人の子供がいて、全ての学年が9クラスあった。だから、学校は千五百人の子供の棲家だった。巨大で騒々しく、時折恐ろしいものになるのだった。僕がそこにやってきたのは70年代後半で、部族主義的なポップカルチャーがほぼ間違いなくそのピークを迎えている時だった。運動場はライバルの悪ガキどもでいっぱいだった。年下の子供たちでさえ、選んだグループの振る舞いに自分達を順応させようとしていた。パンクは髪を尖らせ、ハードロック好きは髪を伸ばし、モッズはパーカを着てそれぞれにネクタイを締め、ルードボーイ(スカ好き)は髪を光らせ、2トーン(パンクとスカが融合した音楽)の絨毯は彼ら自身の印と栗色のスクールジャンパーで規制を敷いた。部族の全ては、スキンヘッズを除いては比較的無害だった。極右政治思想の間違いに満ちたやり方を取り上げ、イギリス国民戦線とブリティッシュ・ムーブメント(ネオナチ集団)のような、あれらの80年第初頭の人種差別主義の暴力集団の好戦的さとやり方を選んだ奴らだった。僕が初期に近しい友情関係を築くのは、一人はナイジェリアから、もう一人はインドから来た家庭の子だったのだけれど、危害を加えられる脅威に常に近づき、彼らの不快な、撒き散らされる唾の悪意のクローズアップの証人になった。彼らの16穴ブーツと棍棒と忌々しく憎しみに満ちた言葉の。学校はそういうささいな暴力と脅しでで一杯で、教師はそれに対して何かしようとうう意思か能力がないのだった。伝統的な迫害のパターンとして、ーーー強さゆえの弱さ、知悉しているからゆえの浮世離れーーー、金網のフェンスで囲まれたコンクリートの運動場の中では、奇妙に心地よい受け入れ場所を見つけたのだった。僕がトイレに頭を突っ込まれるイジメやもっと悪いものから逃れられたのは、僕がかなり背が高く、運動が得意だというだけだった。決まった悪質な悪漢ども、手に負えない年上の子供らは、やり返してこないと思った年下の子供たちをそれぞれ殴った。