Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その93

ブレ様自伝翻訳行きます! 勉強を真面目にしてこなかったために理論が構築できていないOBAKAさんが訳したゴミ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 これが九十年代始めのロンドンで、メディアの照尺が一〇年間全てにあまりにも掻い摘みすぎて投げかけたポピュラーな「クール・ブリタニア(Cool Britannia)」の修正主義の神話からはひどくかけ離れていた。膾炙したセオリーはその数十年間は途中まで「前進した」だけであって、九十年代も例外ではないということだ。少なくとも最初の二・三年は八〇年代の二日酔いのような気がする。ジョン・メイヤーの不適切で憂鬱なトーリー党の失業者の世界と安売りのラガービールと糞みたいなボーイズバンドの。八〇年代の煌めきと約束は長く通り過ぎた。ぞっとする「シャンパンと摩天楼」の空想は寒々しい脆い電話ボックスの無人地帯と醜いロゴと安いスーツに身を包んだ絶望した男達へと捻じ曲げられて行った。きちんと作用するものは何もなく、どこに行っても売られた時そのままの色に塗られた壁ばかりだった。もっと健康的なロンドンの一部でさえ、見事な緑青の垢で疲弊し摩耗し塵埃にまみれ、首都の残りの場所は駐車場と待合室のような感じだった。そして文化的な外観は単純に不毛だった。世代を決定するバンドは一時的に断絶し、個性のないつまらないダンスミュージックとカリスマ性のないポップスの真空地帯を創り上げた。オルタナティブシーンにおいてさえ、アイディアは尽き、週刊の音楽誌は唾を飛ばしそのような意味のない見世物的な作法に流産したバギーとシューゲイザーのムーブメントの後に何かを追求しようと動き回っていた。これが僕が反発し記録していた世界だった。その二つの棹の間には奇妙な舞踏があり、僕らの音楽に搭載されたどんな「性的魅力(glamour)」も現実逃避を意図され、確かにそれは退屈で皮肉めいた一九七〇年へのオマージュでもなくて、だがその住人が逃げ出してきた場所に堅固として位置付けられていた。借りられた家と、ゴミまみれの道と、前の晩の二日酔いの鈍痛と。
 「ヒーズ・デッド」という曲は、特にそういった絶望的な、飢えた年月を思い出させる。実質的には他の全てが同じ方法、バーナードが思いついた音楽のアイディアに僕がトップラインを書く一方で、この曲は珍しく僕が始めたもので、フレットを上下する鋭く形作るFコードが滑らかに動いて、けれどトップのEと Bがオープンになり持続低音して置かれている。それはシンプルだが効果的で、思慮深くどんよりとしているものを示唆していて、だからぼくは回り道と不法占拠の敵愾心に満ちた友のいない世界の憂鬱なセットについて作詞した。カレッジを退学した後、僕は契約して毎週地下鉄に乗ってエッジウェアロードまで行ってリッソン・グローヴの失業手当の事務所までのろのろ歩いて、古着に身を包んで列に並び、週2・3ポンド貰う代わりに事務員に講義と説教をされた。「ヒーズ・デッド」はその憂鬱な風景に合致するセットだった。霧雨と安全地帯と靴下に感じる濡れた舗装道路。バーナードが息を呑むようなギターパートを書くまで曲はあまりにも単純だったーごつごつした、捻れた、曲がりくねった、ほぼ東方趣味の、正しく曲に変形して、ゆっくりとしたセクシーな、獲物を求めてうろつく獣は怒れるノイズの恐ろしい大渦巻きへと溶解した。僕とバーナードが「ムービング」と「パントマイム・ホース」を同じ日か、きっととても近い時に書いたことを覚えているように思われる。「ムービング」は素晴らしいライブの曲だが酷い音質でスタジオで最終的に破壊されてしまって、けれどその中心は脈打ち跳ねるがなり声で、一つの人生からねじ切り新しい人生を詰め込むことに引き起こされたのだった。僕はずっと同音字で遊ぶことを楽しんで、タイトルのダブル・ミーニングを愛した。歌詞の「投げ縄(lassoing)」という言葉は僕の作曲への自信の急発展の奔流の瞬間から来て、ある晩僕には奇妙に思える言葉を思いついて、冗談でアランを試し、曲に靴べらを差し込もうとし、そうなった。トラックの躍動からバーナードの育ちゆく自信も感じられるだろう。いかに彼が賢く、同時代のスタンダードなグランジの静動の動きを真逆にひっくり返したのか、熱狂的なバースを作り、コーラスを広げて限りなくしたか。僕の苦い後悔は、その時点でトラックにひどいフェーズを付け加える誘惑にスタジオで逆らうにはあまりにも初心だったことで、それによってアルバムのバージョンが貧弱でウケを狙ったものへと変わってしまった。「パントマイム・ホース」は今でも、スエードが作ってきた中の最も偉大な曲の一つだ。バーナードが初めて曲を披露してくれた時、それは違う拍子記号で、それを6/8拍子にしようという僕の提案は、スミスの「ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア(That Joke Isn't Funny Anymore)」に影響を受けていたと思う。兎に角、それは上手く行き、僕は激しい情熱的な大団円の、微かな自己憐憫の歌詞を書いた。最後の「そんな経験したことある?(Have you ever tried that way?)」という叫びは、性的な嫉妬から生まれただけではなく、徹底的であることも意図されていて、階級と貧困と特権への疑問の大演説だった。