Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その91

ブレ様自伝翻訳行きます! 基礎的学力のないパッパラパーが訳したゲロ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 アランがポテトを揚げている間、僕はもっともっとバーナードと時間を過ごすようになり、僕らは近しくなった。僕は決して集団に属することが好きではなかったーーそれは僕を困惑させ怯えさせ傷つけるものだと思え、なぜだか自分自身を保てなかったーーけれど、一人の人間と向き合うのはくつろげてゆったりできた。僕が思うに、僕とバーナードは実際に、このようにコミュニケーションをするのがより楽だと思う種類の人間で、バンドの社会的ヒエラルキーのスポットライトから遠く離れて、今僕は独り身でスペースがあり、僕らはより自由により楽に一緒にいられた。時折彼が身につけた怒りっぽい仮面の下で、僕の壊れた世界の破片を一緒にくっつけようと優しく手助けする優しく思慮深い男の子の存在が明らかになった。正直、僕とバーナードの「関係性」について語ることは難しいと思う。数年後に僕らがThe Tearsとして再結成した時、僕らにはイライラするおしつけがましい問題となり、ぼんやりとした気を散らす存在はインタビューに支配的となっていたようで、僕は否定と誤認の山に何かを付け加える気にはならない。僕らは僕らが書いた曲と誇りに思うアルバムについて語りたかったのに、つまらないゴシップに満ちたインディーのハロー!(訳者註・イギリスのゴシップ雑誌)の、女性向きのカバーストリーのような、メロドラマと個人的な物語に他の皆は取り憑かれていた。労働と成功の坩堝に共に叩き込まれた二人の人間がいたら、緊張とフラストレーションが生まれるが、そこには愛と尊敬と本当の温もりもまた必要だった。事実、上手く作用するための真髄となる立派な作曲班の中でのいい議論と摩擦があった。押しては引くことと、突き刺し追い立てることと、生来のチャレンジ精神はケミストリーの極めて重要な一部で、約束の一部としてどちらも受け入れる必要があり、それを取り扱う方法を学んだのだ。今でさえ、三〇年近く経っても、何十年も経験を積んだ比較的成功した作曲家となっても、アルバムを作ることは、僕と一緒にアルバムを作る人たちとの間の個人的な関係性の伸展と境界の厳しい試練だといまだに思っている。自分自身の肩を優しく叩き、失敗と怠惰は過去におけるポイントで、挑戦というのは本当はいつもいつも自分自身への挑戦だと思い出させるまで、自分が誰かの上に投げ出されるフラストレーションだったり失敗と怠惰への子供じみた非難だと思うだろう。僕とバーナードの関係は尊敬においては何の違いもなかった。ただ単にメディアが僕らにスポットライトを当てたことが誇張されてある時に熾烈になり、許し難い睨み合いの中、分裂は突然変異し歪められた。僕らは摩擦は全く「個人的」ではないと理解するのにはあまりにも若くて、それは、僕らが取り扱い方を知るには初心過ぎた創作過程の単なる副産物に過ぎなかった。悲しいかな、そういう軽率で不可解な傷をメディアが引っ張っている間、最終的に内破と崩壊に導かれたが、早い時期の頃の一緒に過ごした温かく愛情に満ちた思い出を僕は持っているだけだ。そう、沈黙としかめ面は創造性の道にいつも散らかっているが、この時は、歪められた成功のプリズムと金に永遠に彩られる前に、僕らは友達だったと思いたい。明らかに、僕たちはかなり違う人間だったけれど、人々が思うであろうほどには違わなかっただろう。僕の経験上、バンドメンバー間の事件の噂が立ったら、内部機関の外側で自動的に推測され、彼らはレンズを通じて言葉の解釈と曲の意味における摩擦について知っていると考えているのだ。数えきれないほどこの歌やあの歌はバーナードに“ついて”の歌だ、だってバンドの動きに関係している“かもしれない”要素がある“かもしれない”からだ、という文章を読んできていて、実際その歌がほぼいつも全く違う時、ベールに覆われた起源があった。僕は同じことがザ・リバティーンズThe Libertines)に次の10年間に起こったのを見て、皆が読んだ彼らについて書かれたことは彼らの連結された人格の嵐のようなロマンスに流れ込み、そう、僕らのケースのように、殆どは完全なるフィクションだった。ただ、僕は多くの人にとって背後の話が重要だということも完全に理解している。物質と重量と焦ったいベールの布で陰謀と噂が音楽に吹き込まれるのだ。重要なのはそれが全く主観的であり、絶対的な真実などなく、それは作曲者においてもだ、ということを思い出すことだ。
 僕らはレイトンのバーナードの家にセントラルラインで定期的に行きつ戻りつするか、彼がノッティングヒルに来て音楽と陰謀と計画に傾聴し、それら全て僕らが書こうとしている曲に流れ込んだ。その、彼がまだ末期的にダサかった頃、僕は初期のボウイを再発見した時期で、「クイックサンド(Quicksand)」の歌詞に取り憑かれ、特に“権力(The Power)"への彼の言及は、僕が捉え難い作曲の鍵だと解釈する重要な何かの始まりで、ある寒い午後にそれについて無駄口を叩きながら、バーナードのフラットで安い暖房の前で床に座っていたことを思い出す。僕のようにボウイの全作品をバーナードが知悉していたかは定かではないが、彼はそれに恋に落ち、それは音楽になり、後の狭いジャケット、僕らがよく言及したスミスと共に、初めに僕らを定義した。