Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その73

ブレ様自伝翻訳行きます! ただただ退化あるのみの稚拙な翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 そうして数週間過ぎた。バーナードは地下鉄に乗ってラドブルック・グローブにやってきて、彼のエピフォンをソフトケースに入れて背中に担いでハイレバー・ロードまで跛行し、時間の合間に、無価値なコミュニティー・センターと図書館で決して築かれることのない計画をして、ロンドンと薄明の冷気を急行して出会い、僕らの控えめで成長しつつあるレパートリーをリハーサルした。「ソー・リベレーテッド(So Liberated)」「キャリー・ミー(Carry Me)」「ザ・ラブラドール・イン・ユー(The Labrador In You)」「ワンダフル・サムタイムス(Wonderful Sometimes)」というようなタイトルの曲ができたのだった。階級の制限への無鉄砲さ、潜在的セクシュアリティと自負への不器用な声明、自意識過剰なラブ・ソング、それら全ては僅かに音楽性に乏しく不恰好で、いまだ現実のひりつきやドラマに執着していた。冷暗な客観性に照らして思い返せば、僕の声にも現実的な限界があったのだ。僕の音楽的探求は静かに後に控えることから始まったのだったーー礼儀正しく、グレッチ・ギターの背後に隠れた陽気にかき鳴らす歩哨ーーけれど、単純に僕はその役割を十分に演じることはできなかった。ある日目を覚まして朝日の中瞬きをして、楽器を演奏する技術の欠如から、バンドのシンガーとして自分を位置付けようとして、不可避の運命がその手に遊ばれて、ついに僕はずっと先の未来に案内された。僕の声に強さを発達させるのと、自意識過剰と自己抑制を克服するのと、激情と狂気と、実際に歌唱するために必要とされる感情の河川を包括するのは、暫く時間がかかった。簡単に言うと、貧弱なボーカルだったのだ。けれど、ゆっくりとゆっくりと、失敗を経験して僕らは学び、身を起こそうとする友愛のミュージシャンの出来の良いベッド・ロックの集積の成分を成熟させ始めた。僕らは一緒にギグに行き、僕らより多少上に梯子するバンドの技巧を注意深く観察した。だが一方で、僕は音楽を理想化して過剰に簡略化することを選び、バーナードは彼が思い描く音のを構築するために必要な実際の技術をより理解し、多くのギタリストのように、非常に専門的になり、これを達成しようと注意深く励んだ。ライマンズ(文房のチェーン店)でのバイトの賃金を使い、ゆっくりと機材とペダルを蒐集し始め、それらの微妙な差異と変化を学んだ。僕らはザ・パーフェクトの跛行するアコースティックの音を隠そうとしたくなり、中古のドラムマシーンに投資し、ある日ルノーに乗ってM4高速道路を降りフェルサムに向かい、ヒースローの飛行経路の人を寄せ付けなく見える高層ビルの下で純情な麻薬常習者と一〇〇ポンドで古いアレシスHRー16を交換するために出会った。ジャスティーンのフラットに戻り、疲れを知らない進みに幻惑され、どうにか僕らの曖昧模糊としたゴールに一歩でも近づけたと感じたことを覚えている。正直であるとするならば、僕らは不出来で時代精神に左右されてしまうほど感じやすく、ドラム・マシーンの存在は、ポスト・ローゼズ、マンデーズの交流後流に乗ろうとする群れとして、エレクトロニカとシークエンサーとサンプルとループの九〇年代初頭のインディー・ミュージックのブレンドは調和したのだった。この時、サマー・オブ・ラブの第二波の巨大な影は僕らの小さな日の当たる世界にでさえ覆ってしまったのだった。巨大な若者の群れと彼らの野放図な快楽の追求は、逸脱した五〇年代のロックンロールとパンクを刺激的にする体制への真実の反抗を包括する明白な感覚がある血湧き肉躍る瞬間だった。ダンス・ミュージックがロックに取って代わる運命だったのは一時的に見えて、ロックにとっては生存するためにはとにかく適合する必要があったのだ。ドラムマシーンの採用は僕ら自身の音を無目的に手探りしながらの、この流行の大きな波への譲歩だった。