Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その86

ブレ様自伝翻訳行きます! 調査能力皆無な脳味噌藁の人間が書いているということをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 1991年の初めにの間のある時点でこのこと全てが起こっている間、ジャスティーンは他の誰かに出会っていた。魔法と興奮は粉々になった親しみと義務と誤りの欲求不満によって褪色した。僕らは若く、家族の紐帯もなく、彼女が得たと考えた光は彼女にとってもっといい人生だったと思う。きっと、僕の父のように、僕は心地の良い怠惰へと流されていた。僕の馬鹿馬鹿しい無意味なロマンスの理想化と野心の拒否は僕の人生を少し詰まらないものにしてしまったに違いない。もしその時の僕が押し潰されていたと人々が高笑いして大喜びして聞きたがるのなら、そう、望み通りそうだったと認めよう。僕の母の死後、僕を本当に持ち堪えさせていた唯一のことは、僕らの関係の結束で、それが突如として僕からひったくられて、顕になった生々しい死別の傷はいまだに進行し、ぐいと押された一突きと共に僕を転倒と旋回する状態にした。20代初めの若者が予測可能な恋人との破局に酷く傷ついた状態に自分自身を置いておくのは人には奇妙に写るかもしれない。僕も時々考える。おそらく僕はその時は感情面から言えば脆い人間で、けれど、自分が忠誠を尽くす価値があると看做したそれらには凶暴に忠実だったのだ。裏切りの瞬間にそれらの虚構は砂の城のように脆くも崩れ去り、またしても父のように、夢想の薄い空気にしがみ付きながら床に打ちひしがれたまま横たわった。僕は若く、初めての恋で、眩暈のするような昂揚はその長い、長い道のりを終えたのだった。破局はいやらしく悍ましかったが、終わりない緊張に満たされた電話と長い涙いっぱいの夜は、僕がのたうちまわりしがみついている間、孤独な黒炭の朝に溶けて行った。穏当に去っていけば良かっただろうに、僕らの人生は酷く絡まっていたので、それは不可能なように思われたのだ。暫くの間僕らはぐちゃぐちゃになってもがき、非難と欲求不満と裏切りの苦い雲の中に縛り付けられ、僕らの以前の人生の喜びと調和は恐ろしく反転し、ある夜僕がそれ以上耐えられなくなり、自分の物を集め、ミニタクシーを呼んで去り、2、3枚のシャツとジャンクショップで摘み上げた例年の古いポップシーンを置いていくまで続いた。

CBM その85

ブレ様自伝翻訳行きます! 反省もなにもしない人間が書いたうんこ翻訳だということをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 サイモンの僕らと初めてのギグはたしかロック・ガーデンだった。そこは「定額制(pay-to-play)」のベニューの一つで、そこでは絶望的な若いバンドが薄い緑青の展示を自分に提供するために自分自身のパフォーマンスに渋々金を払うために利用されていた。ショウの全体を覚えてはいない。オーディエンスにいつもの変わり映えのしない無関心さで肩をすくめられたと推測しているが、それは僕らには、僕らは今ようやくどこかに向かって進んでいると感じられた。僕ら自身の、だ。

 ところで、ULUでサイモンと働いていたリッキーは、リッキー・ジャーヴェイスだった。その時の彼に関して僕があまり情報を持っていないことを聞いたら残念に思うだろう。サイモンは実際にそういった古い苦労話の最良の源だった。きっと僕は僕ら両方が成功を収めるかねてより前以来もっと会っていて、そして彼はいつでも寛大で余りにも魅力的で勿論ひょうきんで、彼が僕が「決して太ったことがない」ことを喜んでくれているとしばしば言っている。90年代初頭の暗黒期に僕らの道が交わった唯一の時は彼のバンドのサポートをしている時でーーサン・オブ・ブリーパー(Son Of Bleeper)ーー出席の乏しい大学でだった。振り返れば真実渋面を誘発する歌のデイビッド・ブラントのつまらないバージョンを思わせたと僕が言うことは不公平だと彼が思わないであろうことを望んでいる。ある特定の抑えた歌詞は何年も僕の耳につかえた。「ジョニーがやりたいのは彼のギターにブルースを歌わせることだ」というような言葉は、嗄れた、ネオアメリカンの、ブルー・カラーの、バーの声で歌われた。リッキーが彼の天賦を開花させた瞬間は彼が利用できる最も豊かな喜劇の源は本当は彼なのだと気づいた時だと思う。

CBM その84

ブレ様自伝翻訳行きます! 一切進化の見られないうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 クイーン・メアリー・カレッジに在籍中、バーナードはナディールという奴に出会い、彼は僕らをマネージメントし始めた。彼は低レベルの大学の催しのマネージャーの一員で、その中にはULUのチケットオフィスで働いているリッキーという人物も含まれていた。彼は、そこで彼と一緒に働いているドラマーを紹介してくれて、僕らはプレマイセズでオーディションを設定した。彼の名前はサイモン・ギルバートだった。僕はサイモンが入ってきて、シャイで礼儀正しく非常に魅力的だったことを覚えていて、そして今日に至るまで、彼がそれほどシャイでなくなったにもかかわらず、年月の経過は温かみと優しさの深さを明らかにし、僕の彼への認識は然程変わっていない。彼はばかげたDM(訳者註、おそらくドクター・マーチンと思われる)の、ピッタリとしたズボンを履き、逆立てた髪をブロンドに染め、ザ・クラッシュThe Clash)の失われたメンバーの1人のような見た目で、今日の実際の彼の見た目とそんなにも違わなかった。僕らは2、3曲演奏し、極めて最初の段階で、かれこそが欠けていた要素なのが明らかだった。僕はずっとサイモンのドラム・スタイルを愛してきた。決して煩雑過ぎず、いつでも原始的で力強く、明らかにポール・クック(Paul Cook)とバジー(Budgie)とトッパー・ヒードン(Topper Headon)と他の全ての、僕が初めて恋に落ちた荒々しい怒れる音楽に多大な影響を受けていた。サイモンのインプットは重要な鍵で、しばしば俯瞰的で、僕らがなろうとしていたバンドの要素だった。彼は「グルーヴ」へと愚かにも脱線しようとする僕らを軌道修正し、バンドに眠って横たわるパンクとポスト・パンクの要素を苦労して搾り取った。「ザ・ドラウナーズ(The Drowners)」の部族的なトム・パターン(訳者註、tom patternはドラムの奏法の一種)、「ムーヴィング(Moving)」と「ドリー(Dolly)」のような曲の熱狂的な混沌、僕らの初期の音楽の癖のあるエッジは他のドラマーの手によって発展した。実際にサイモンにしつこく頼まなかったが僕らは全員彼は溶け込んでいると確信していて、ますます興が乗ったリハーサルの数週間後に、僕が覚えているのは彼が僕をおどおどと呼び出して礼儀正しく彼はオーディションに合格したのかどうか訊いたことで、それを今でも時々僕らは愛情を持って彼を揶揄っている。

 バンドはようやく完成され、僕らは猛烈に作曲とリハーサルに取りかかった。そこでサイモンと共に、エッジをより鋭く展開し、よりいやらしくパンクな、「ゴーイング・ブロンド(Going Blonde)」と「ペインテッド・ピープル(Paintd People)」のような、今でも恥ずかしくない曲を最終的に思いつき始めていた。「ゴーイング・ブロンド」は熱狂的で、意識の流れの絶叫で、「サブタレニアン・ホームシック・ブルース(Subterranean Homesick Blues)」の四散した稠密な拍子に少し影響され、テリーというジャスティーンと僕が作り上げた架空の人物を出している。彼は微かに理想化された、労働者階級の、偽物のダイヤモンドのピアスと安いラガービールとビリヤード場の空想の世界に住んでいて、彼のキャラクターはマーティン・エイミスの「ロンドン・フィールズ」という、1990年に僕が夢中になった本に大いに影響されていた。ジャスティーンはずっとその詩が大好きでエラスティカはそれを「シー・ザット・アニマル(See That Animal)」と後に改題してカバーした(それは僕が「その獣を見ろ/ヘビー・メタルになれ!」と叫ぶ所から始まる)。「ペインテッド・ピープル」嘲弄的な上流社会のばかにした長広舌はやっとを日の目を見た最も古い曲の一つで、僕らは今でも演奏しているのだった。短く不快で酷く攻撃的な、いつも奮起する怒りの巧みな奔流を生み出している。そして、サイモンが欠けていたジグソーパズルの一片を提供し、マットも生きたドラマーの一撃に噛み合うこれまで以上に野心的なベースラインを書くことに才能を同時に展開させ、新たな独自性の層が音楽に付け加えられた。決して喜んでのろのろ進んだり煩雑さに占められることはなかったが、しばしば複雑で豊かなメロディーだった。マットは以前からずっと音楽についてきちんとした概念を持っていた。彼が最初に認めたのは彼が決して「ミュージシャンズ・ミュージシャン(musician's musician)」ではなく、絶対にそうなりたくなかったことだ。彼の力、そうであるバンドへの多大な重要性が、彼のヴィジョンと嗜好にはもっと潜んでいた。彼はいつだって僕らがそうでありそうありたかったバンドへの自意識をより素晴らしく展開させた存在で、今日に至るまで彼はいまでも極めて重要な声を持っているのだった。彼がいなければ、「トラッシュ」のような自己に目覚めた曲は絶対に生まれなかっただろうし、きっと僕自身の「世界(world)」と特性と風景が展開するバンドのセンスは未発達に終わっただろう。けれども、サイモンの存在は彼の中に音楽的な物を解放し、彼は素晴らしい役割を生み出した。「ヒーズ・デッド」と「パントマイム・ホース」と「トゥー・ザ・バーズ」、後の「シーズ・ノット・デッド」と「ワイルド・ワンズ」のような曲はそれ自体で美しく感動的なベースラインを持っていて、マットはそれら初期の曲の音と感覚に極めて重要だった。

CBM その83

ブレ様自伝翻訳行きます! 訳の分からんままに訳しているゴミ翻訳だということをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 僕たちと彼のつながりはかなりおざなりだったから、若者が持ちがちな、無頓着で紐帯のない関係の中、僕らが帰還した頃、ジャスティンはスピットファイア(Spitfire)や他の多くのバンドに流れて行き、僕らは新しいドラマーを探す必要に迫られ、音楽雑誌に広告を打つことに決めた。その言葉を正確に覚えてはいないが、影響を受けたのはスミスだと名前をあげたのは分かっている。答えてくれた僅かな人間の1人は、マイクというマンチェスター民だった。プレマイセズのリハーサルルームに彼が入って来るまで、彼がマイク・ジョイスだと僕らは知らなかった。僕らはいささか畏れおののいたが、マイクは本当の紳士だった。彼は礼節をもって僕らの普通の曲に耳を傾け、一緒にジャムをし、助言をくれたが、長広舌を振るわず、講義もせず、経験豊かなプロとしても振る舞わなかった。それからの数週間、彼は僕らを彼の翼の元に置き、優しくおじのようなやり方で僕らを育て励まそうとした。彼は僕らの潜在能力を見出したと僕は思いたいのだが、きっと彼は僕らを可哀想に思い遊ぼうとしたのだろう。それはそれとして、ある時バーナードと僕はマンチェスターに電車で行き、彼と彼の妻と過ごした。僕らは貯蔵庫に集まり、「ウィー・ビリーヴ・イン・ショウビズ(We Believe In Showbiz)」というおかしな曲を書き、紅茶を飲み喋って喫煙をして夜まで過ごした。彼は古い苦労話をしてくれて、朝には僕らをピカデリー駅まで送ってくれて、大切にされ、どうしてか身中に入れてもらった感覚を抱きながらロンドンに帰った。数週間後、僕らはロンドンのバッテリー・スタジオを、マイクがプレイする新曲を録音するために予約した。「アート(Art)」は、ギターと共に適切に突き進む力強い獣が「ミート・イズ・マーダー(Meat Is Murder)」のよりロックな瞬間を髣髴とさせるのだった。悲しいかな、またしても僕のボーカルのせいで台無しになり、空威張りと空虚な怒り以上の意味を持とうと曲はもがいた。僕は単純にどうやってきちんとメロディーを齎すのかを学んでいなかった。歌詞は余りにも稠密で性急で、過剰に語ろうとして結局何も言えなかった。物事が移り変わったその時も、僕らは忍耐の技術を学び始めていたのだった。

 約束された曲のリリースは決して実現しなかった。その「レコード会社」は何か期待して待っている価値なんでないことは明らかに分かった。残念なことに、僕らの時期尚早な契約の失敗は、僕らが成功を収めてから、僕らを悩ませるものとして復活し、僕らの行動が逐一顕微鏡的に精査されていた頃に、基準を満たしていない素材の恥ずべきリリースを阻止するために録音を買い戻さなければならなかった。マイクとの時間は非常によい期間として終わったのだけれども、両者共に、彼が本当にバンドに参加したら片寄った不均等なアンバランスがあると思い僕らは友人に留まり、彼はPILと演奏する方向に行き、僕らは他のドラマーを探すことになった。僕は今でもマイクに合うのだが、彼の温かさと情熱がいつでも消えることのない輝きを放つという事実に僕はいつも称揚される。

CBM その82

ブレ様自伝翻訳行きます! 何の知識もないど素人が直訳したうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 今、正にこの時点では、イベントに苦労なく呼ばれ、それはこの本の重要な点ではないが、ある時マットと僕はヘイワーズ・ヒース第六学年カレッジから知っているある男が視界に現れる。彼は明らかにちょっと金を持っていて、レコードレーベルを発足させることで音楽業界に足を入れようとしていて、だから2、3曲のレコードに金を出すと僕らに申し出たのだ。それはおそらく厳密には、正式なレコード契約の感じではなかった。魅惑と恩恵の感覚を得るにはそれは余りにも控えめで安価だった。彼の自家製の「レーベル」には歴史もなく独自性もなく名簿(訳者註、おそらく他のミュージシャンの名前が入っている名簿)もなかった。よく分からない響きの三文字と控えめな約束だった。実際に何か歌ったかは覚えていなくて、枢要だったり特にエキサイティングな感じだったとははっきりと記憶はしていないけれど、それは僕らがちゃんとしたスタジオで少しの時間を過ごしたということだった。彼が僕らに見繕ったのは、サセックスを降った、皮肉なことにヘイワーズ・ヒースから一〇〇万マイルも離れていない場所だった。ロックの伝記と雨の日の午後にNMEの探索の日常食で育った誰もにとって、レコーディング・ルームの図像はよく見てきた輝きを放ち、制御室と防音されたサウンド・ブースの迷路の間で多くの時間を過ごし、秘密の花園への鍵を発見した純粋な子供のように徘徊し、フェーダーとキーボードに指を滑らせ、私的なロック幻想に没我した。実際のレコーディングの作業は二次的に見えたが、ようやく僕らは平静を取り戻し、僕らのアイディアをちゃんと実行するための頼りない一歩を踏み出すのだった。しばしばバンドが最も興奮するのは書かれた最新曲に関してだ。その時の僕らの曲は「ビー・マイ・ゴッド(Be My God)」だった。躍動的で催眠的で、ほぼ最高のグルーヴが、ボリュームペダルを通じてバーナードの迸り拡大するギターと始まったが、僕の貧弱なボーカルと酷い歌詞のせいでつまらないものになってしまった。僕らはその過程で躓いたけれども、真新しいスリルを楽しみ、孤絶したレコーディング・ルームとミキシングデスクで過ごした2・3日後、録音を仕上げ、テープと共にM23号戦を運転してロンドンに帰り、計画と可能性に息もできず雁字搦めになって。

CBM その81

ブレ様自伝翻訳行きます! 語彙の貧弱さが現れているうんこ翻訳だということをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 そうして2、3ヶ月、僕らは不器用に行軍し、ドラムマシーンの気まぐれでゼンマイ仕掛けの暴政の半砂漠の糸とプレイし、パブの奥の憂鬱なギグ、今は潰れた低レベルなベニュー、けれど、兎に角曲に息を吹き込みたいのなら、成長させ発展させ反応を起こしたいのなら、呟きと静寂と少数の従順な拍手ではないのなら、だから僕らは本当のドラマーを探す必要になった。

 ぜひどうにかしてジャスティン・ウェルチという男と連絡を取れた。プレマイセズにある晩彼のミニの後にドラムを携えて現れ、肩の長さのアッシュ・ブロンドの髪の、強烈なロッカーで、ミッドランのアクセントが彼の鼻を通じて鳴っていた。僕はいつだってジャスティンのことが好きだったし、今だって彼と遊ぶ。彼はいつも素敵だし、一緒にいて非常に楽しいけれど、彼が若い時はあった疲れを知らない旋風の活力を混沌の跡に置いてきてしまった。彼と一緒に何曲か演奏し、彼はザ・マペッツ(The Muppets)のアニマルとキース・ムーンの交差のように打ち付け衝突し進み続けた。だが素晴らしかった。ドラムマシーンの移り気な硬直した拳から、生命と余地と自由がやっと吹き込まれた。彼は大勢のバンドとプレイしてきた男だったけれども、僕らの礼儀正しい微かに無性の歌がちゃんと彼に訴えかけたかは定かではない。僕らは曖昧にまた会おうと決めたが、僕は彼が誤魔化していることを知覚した。その後僕らは飲みに行くことにして、なんとか彼のミニに押し込まれ、ドラムキットに押し付けられた。彼の運転はドラムの演奏のようで、ハックニー・ロードを急ぎ、コーナーをあまりに早く周り、制御を失い車は回転した。警察劇のカー・チェイスのスタントマンのように、最終的に完璧なサークルに滑走した。停止しようと急ブレーキを踏んだ頃、僕らが最初に見たのはパトカーと渋面の怒れる三人の警官で、彼らは全てを目撃し車窓を通して見返していた。ジャスティンは次の2、3時間を警察署で過ごし、僕らは喉が渇いたまま帰宅した。

CBM その80

ブレ様自伝翻訳行きます! 訳した先から自分の翻訳忘れてる鳥頭の翻訳だということをご了承いただける方のみご覧ください! 原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 だから僕らの空いた時間は菓子屋に入ろうとする死ぬほど退屈な経験で充満した。バーナードと僕は切手を舐め黄色いジフィバッグ(保護クッション入りの封筒)にデモテープを入れて、常に「退席中」のレコード会社と低レベルなプロモーターとベニューの支配人の同意を得ることに全ての午後を費やした。電話は取られずドアは眼前で締められた。そして僕らが考えたのは僕らの絶望的で陰鬱な十字軍の餌として、ジャスティーンの明白な魅力を使うことだった。2、3回彼女はイースト・ウェストやクリサリズ・レコードのような場所にレザーのスカートを着て行き、違いが出るかもしれない誰かの手にカセットの一つを押し付けようと試みた。今となっては酷いことなのだが、少しも下劣ではなかった。僕らみんな、彼女の見た目と魅力は、貧弱で痩せっぽちの見た目の僕らより、きっと注意を引くだろうとただ思ったからだ。けれどレコード会社は決して電話をしてこなかったし、ありがたいことにそうされなかった。僕らは必死に向上する必要に迫られた。

 けれども、推し進め押し退けて辛抱した後、僕らの曲の「ワンダフル、サムタイムズ」がGLRのある日曜の午後のゲイリー・クロウリーのデモ・クラッシュに取り上げられることに成功した。それは番組の一企画で、ゲイリーが二つの未契約のバンドの曲を連続して流し、聴衆がいい曲に投票し、勝者は次の週のコンテストに進めた。勿論、現実には全てのこの現象はそれぞれのバンドの多くの友人が電話を入れて悩ませる勇気を奮い、僕らの極めて多い知り合いのお陰で最終的に2、3週勝ち残れたのだった。このことから起こった小さな注目の波は、メロディー・メーカーの記者をギグのレビューのためにブル・アンド・ゲートに来させる事態を起こすのだが、それは僕らには時期尚早で、続いて起こった悪意のある意地の悪い批評はひどく突き刺さった。僕らは子供のテレビ番組のプレゼンテーターになぞらえられいて、もしこれらのショウの初期の写真を見たことがあるのなら、解説は筋が通っていなくはないだろう。僕らがオシャレだと思っていた無様なストライプのポスト・マンチェスターのデイグローのTシャツとルーズジーンズを陽気に身につけ、僕らは皆カリスマで威厳あるトイレットペーパーホルダーだった。それが僕らの初めての苦く厳しい公の譴責だったが、僕はきっとそれは最終的に僕らを向上させる出来事のタペストリーの一部だったのではないかと思う。そしてそうされなければいけないのは神のみぞ知る、だ。九〇年代の初めにおいてさえ、「キャリア」という言葉は音楽について語る時に気軽に触れられるものではなく、僕らの足掻きは茫洋とした気まぐれ以上だという強い感覚があった。デジタル化が進む前の時代、面白く枠外の音楽を制作することとテーブルに食事を齎すことは同時に成立すると期待することは完璧に可能なように思われた。今日、僕は比較的成功し創造的で刺激的なオルタナティバンドーー経験豊かなプロフェッショナルで勤勉な組織のーーを知っているが、そのメンバーはアルバイトで収入を得なければならない。音楽の将来の創造性への含蓄は、実際暗いものだ。