Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その50

ブレ様自伝翻訳行きます! ほんっとーにイイ加減にてけとうに訳してるんで、そこら辺をご了承いただける方のみご覧ください。原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 この時点で、愚かなディラン調のオマージュとして、ヘイワーズ・ヒースをフォークソングを歌って小銭を稼いでいた。サイモン・ホルドブルックとともにサウス・ロードのセインズベリーの外に立ち、「神が味方(ボブ・ディランのWith God On Our Side)」「エドモンド・フィッツジェラルド号の難破(ゴードン・ライトフットのThe Wreck Of The Edmund Fitzgerald)」の下手くそなバージョンをがなり立て、そこを追いやられるか、より日常的に、それを止めるために2・3枚の硬貨を払ってもらうまでやった。ある日、カレッジに僕のギターを持っていって、僕の調子はずれにかき鳴らしたギターの音をマットが漏れ聴き、彼のバンドに入ってくれと頼まれた。ペイント・イト・ブラック(Paint It Black)という名前でギターを必要としていて、そうして僕は学校とカレッジの地面の世界の上に見つけられたプレハブのモジュラーのポータキャビン(英国の移動式建築物)の中の彼らに加わったのだ。そして僕たちはシンプルな派生物の断片の連なりをリハーサルした。僕が経験したのは、他の人と音楽を演奏することにはいつもゾクゾクする快感があったということだ。それは望まれた自己欺瞞のようなもので、それは喜ばしい忘我へと導き、自分が実際にやっていることの実際のレベルをしばしば過たせる。それゆえに、自分達は何かずば抜けたものを創作しているのだという幻想の下に自らを埋める数多くの惨めなバンドが存在するのだ。僕らもそれと変わりなかった。けれど、僕らがシャモのように勇敢に壁にぶち当たり、もっとリハーサルを進めるにつれて、その経験が僕らに何かのはずみを与えたに違いない。

 マットの知人で、ギャレス・ペリーという地元の男がいた。彼はハンサムな女たらしだと評判で、彼の兄は有名なモデルーーー赤ん坊を抱いた、馬鹿げた80年代の白黒のポスターに載った堂々たる男ーーーだった。彼には確とした偏狭な神秘があった。そんな遠く離れた名声と魅惑の階段に近づくことは、僕ら小さな町のワナビーにとって確実に酩酊させたけれど、もっと重要なことは彼がちゃんと歌を歌えたことだった。彼には力強い、X-ファクター(イギリスのオーディション番組)の審査員を喜ばせるような、ソウルとポップの声と存在感があり、彼は最終的に僕らのフロント・マンになった。色んな理由で僕らは僕の家でリハーサルをした。僕が作った奇妙な写真のコラージュとピンク・フロイドの壁面の、北面のじめじめした寝室に皆突っ込まれた。僕のシングルベッドに腰かけ、僕らは夢中になって、手垢のついたタイトルの「シーズ・ザ・ナイフ(She's The Knife)」「リーゾンズ・フォー・リービング(Ressons For Leaving)」、ような5個のコードのレパートリー曲を演奏した。その間父はショパンデスマスクの写真やエルガーの新しい本について僕らに興味を持たせようと定期的に乱入してきた。僕の前のバンドへの譴責を保留していたのはいくらか安心できたし、きっとそれは、父が、上辺だけかもしれないけれど、マットがフランツ・リストの生まれ変わりだと信じていたようだったからだろう。実際、壁にかけられたその作曲家の多くの絵の一つは異様に似ていて、二人ともタカのような横顔と、かすかだが高貴な容姿を共有していた。マットは、ダムのような家系への質問に礼儀正しく返答に返答を重ねた。けれど父はそれ以上の彼への幻滅を拒んだ。とにかく、ゆっくりと時代精神が流れ込んでくるまで、しばらくロック・ナンバーのレパートリーと共に行軍した。