Brett AndersonのCoal Black Mornings 翻訳ブログ

Brett Andersonの自伝翻訳ブログです!

CBM その76

ブレ様自伝翻訳行きます! 文体の安定なんてないど素人のうんこ翻訳であることをご了承いただける方のみご覧ください。原典読まれた方で明らかに違う箇所ありましたらご指摘お願いします。誤字脱字のご指摘もお願いします。

 

 無論、次の段階は、ステージに立ちライブで曲を演奏する勇気をかき集めることだった。僕は結晶化させることを学んでいて、この経験に焦点を当てるのは自分自身の作品をどう見るかということなのだ。最も大人しい観客に全く同じように曲を演奏するのは、完全に違う観点を曲に与えるのだ。急に独りよがりの観点に孤独に取り残されたら、別人の耳を通して曲を聴き、そのペテンは裸にされ、長所も欠点も全くの剥き出しにされるのだった。これを僕らは陰鬱で厳しい九〇年代初めのロンドンのインディー界隈でサポートアクトとして精を出しながら学んだ。知り合いにアンディー・ホランドという男がいて、古い学校の友人の兄弟で、ザ・プリューズ(The Prudes)というバンドの照明をちょっとやっていたアート・カレッジの卒業生だった。彼は好意を寄せ、影響力を使い、ロイヤル・フリー・ホスピタルの近くのハムステッドのフリート・ロードにあるザ・ホワイト・ホース(The White Horse)というパブで彼らが出演するギグの三番手としてやっとオファーされた。記憶が正しければ、そのギグはパブの下の貯蔵庫のような中であった。一握りの人間がひしめく中、僕らは恐る恐るステージに登り、礼儀正しく演奏した。その経験について僕が言える全ては、夢を見るように泳いだようだったということだ。僕らはとても緊張していて、自動操縦装置の本能に乗っ取られて制御不能になり、ほぼ抑圧されていたことに関しては、僕の記憶は奇妙でぼんやりとしている。僕らが演奏したのは「ジャスティス」と「ソー・リベレーティッド」と、恐らく新曲の「ナチュラル・ボーン・サーヴァント(Natural Born Servant)」で、それはデモを録音して2、3のレコード会社を希望を持って周り、だが無駄に終わった、ひどい、滅茶苦茶なバギーだった。マットがドラムマシーンを管理していて、恐らく不快な沈黙の出来事があったはずで、彼が次のプログラムを設定している曲間に当惑してシャッフルをした。それは不適当なマスタークラスで、けれど一度最後の曲を流し終わったら、アンプを持ってステージから引っ込み、バーに集まり、達成感のバラ色の幸福感に縁取られ、恐らくはホッとしていた。あの駆け出しの頃の僕のギグの最も鮮やかな記憶は、ステージの前のD型のスペース、どんな観客も危険を起こして進もうとしない、誰の所有でもない場所(no-man's land)だった。そのバンドが失敗に侵されていたら誰もあまり近付いて来たくはないだろうと、ほぼ知覚できるだろう。おかしいことに、バンドが一旦成功したら、その全く同じ場所が重要な場所になり、激しい争いが起こり、ハードコアなファンによって守られるのだ。僕がまた覚えているのは、ローディーを雇う余裕があるか考える前に、ピークが訪れた文字通りのどん底に、最後のコードを演奏し、僕らは尊大さと不可思議の経帷子に包まれていると考えながら急いで去り、僕らはよく恐る恐るステージから一歩下がって、僕らの仮面は捨てられ、ギアを変える実用性に急いだことだ。一年かそこらの後、僕らが「トゥー・ザ・バーズ(To The Birds)」でライブを締めると、この滑稽な不均衡がより強められたのだった。